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北里研究所はドイツでロベルト・コッホに師事し、細菌学を研究した北里柴三郎博士が伝染病の研究所として創立したものである。創建当初の研究所本館の平面プランは、L字型であったが、明治村へはその一部が移築された。
この建物は博士自身が学んだ研究所にならい、ドイツバロック風を基調としている。また、顕微鏡を良好な状態で観察できるよう、光の変化が少ない北に面して部屋が設けられている。車寄上部に取り付けられてる紋章は、北里博士の発見した「破傷風菌」に「月桂樹」があしらわれている。登録有形文化財
旧所在地:東京都港区白金
建設年 |
大正4年(1915) |
解体年 |
昭和54年(1979) |
移築年 |
昭和55年(1980) |
建築面積 |
109.1坪 |
構造 |
木造二階建スレート葺 |
寄贈者 |
学校法人 北里研究所 |
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<北里の結核研究>
明治23年(1890)、ドイツ留学中に師であるロベルト・コッホが結核治療に関して8月にベルリンで開催された国際医学会で「モルモットの結核を治療する薬をみつけた」と発表し、世界の注目を集めた。
コッホの伝記によれば、この研究は中途段階で、コッホ自身は効果が確定するまで発表したくなかったと書かれている。しかし、国の威信を賭けたドイツ帝国の圧力により、翌月には臨床試験が行われ、「初期の結核は治る」と発表された。
日本ではその情報に反応し、東京帝国大学から3名がコッホのもとへ派遣されたが、コッホは北里に教えるとして彼らを無視した。北里は大日本私立衛生会を通して、結核研究に対する明治天皇の奨学金を受け、内務省から休職許可によって更に1年間、コッホのもとで結核の研究を手伝うことになった。結核治療のための臨床部門と研究部門が直結出来る場所として、シャリテ病院(ベルリン)の一角に国立伝染病研究所を新築した。北里も明治24年(1891)7月以降は、新研究所に移動して結核研究に参加した。
明治25年(1892)、帰国後も北里はツベルクリンの研究を続ける。
明治26年(1893)、日本で最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設。明治43年(1910)に秦佐八郎がエールリッヒのもとで、梅毒の化学療法剤の創製に成功すると、結核菌に直接作用する化学療法の研究に転向し、志賀潔による「銅サルバルサン」を手始めに古賀玄三郎によるチアノクブロール(シアン化銅剤)の開発へと軌道修正することになった。
大正2年(1913)、日本結核予防協会を設立し副会頭に就任。
この会は、結核の予防に関する研究、調査、図書や雑誌の収集の他、標本や機器を用いて、一般人に解りやすく展覧し、講演その他によって結核予防思想の普及に努め、かつ、各都道府県に同様な団体の設立を勧誘し、結核の撲滅に向けて活動を展開。
大正12年(1923)、日本結核予防協会が財団法人となり北里が理事長に就任、秦佐八郎が理事に就任。 |
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