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歩兵第六聯隊は、名古屋に置かれていた東京鎮台第三分営という軍隊が、明治6年(1873)に名古屋鎮台に昇格した時に新しく編成された部隊である。名古屋城跡に兵営が設置され、営庭を取り囲むように兵舎が配置された。明治村へ移築されたのは第10中隊で、兵舎は約七割程度に切り縮められた。
当時の日本陸軍はフランスの軍事組織や訓練方法を手本にして編成し、兵舎等もフランスの建築書をもとにして造られた。軒、胴蛇腹、窓のデザインにその特徴があらわれている。登録有形文化財。
旧所在地:名古屋市中区南外堀町
建設年 |
明治6年(1873) |
解体年 |
昭和38年(1963) |
移築年 |
昭和40年(1965) |
建築面積 |
117.9坪 |
構造 |
木造二階建 |
寄贈者 |
東海財務局 |
(博物館明治村(愛知県犬山市)にて撮影)
<鎮台と師団>
明治4年(1871)2月天皇直属の陸軍が創設されたさい、東京に中央軍として御親兵を置き、地方には鎮台を置くこととし、8月東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)の4鎮台を設置した。明治6年(1873)1月、名古屋と広島を加え6鎮台とした。
鎮台は国内治安の確保・国土防衛が優先任務とされていたが、明治21年(1888)5月外征戦争を想定した機動性のある師団制度に移行した。
師団は独立して作戦しうる戦略単位部隊であり、それぞれ2個聯隊をもつ2個歩兵旅団を基幹とし、騎兵、砲兵、工兵、輜重(しちょう)兵などの支援部隊をともなった。
明治29年(1896)から明治31年(1898)にかけ第7師団〜第12師団、明治38年(1905)に第13師団〜第16師団、明治40年(1907)に第17師団〜第18師団が増設された。 |
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<明治時代の軍隊の食事>
陸軍は和食の優秀性をかかげ兵食に和食を採用したが、栄養バランスより高カロリー重視だった。しかし、パンと洋食を取り入れた海軍と比べると脚気の発生率あ高く、日露戦争においても脚気患者の死亡率が高かったため、陸軍内での洋食導入反対や嗜好面、経済面などを考慮した結果、脚気の原因であるビタミンB1不足を解決できるように白米の中に大麦を入れ、また高タンパクで栄養バランスのよい兵食を日露戦争半ばの明治明治38年(1905)3月より採用した。 |
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<三八式歩兵銃>
この歩兵銃は明治38年(1905)秋に、日本の旧陸軍の制式小銃として採用されたもので、「三八式」というネーミングは、この作られた年に由来する。
<軍隊と生活の洋風化>
徴兵令により、20歳になった男子は原則として全員が徴兵検査を受ける義務があり、これをいわば、男子の成人式とも言える儀式であった。
洋風生活になかなか縁のなかった庶民には、軍隊での兵営生活は小学校とともに洋風の暮らしに触れることの出来る数少ない機会でした。通常は着ることのなかった洋服の初めての体験が軍服であった人々は多かったでしょうし、軍服製造業の発展と相まって洋服の普及をもたらしていったと言えるでしょう。同じことは靴、ベッド、毛布、そして軍楽隊による音楽など、生活の多方面に渡っている。 |