|
|
|
|
戦前、ここは呉鎮守府第三門の隣接地で、戦艦大和など大型艦の建造や修理に使われた呉工廠造船部、呉鎮守府そして呉軍港全体が一望できる高台であることから。海軍用地と民有地の境界には高いレンガ塀が設置されていた。
戦後、レンガ塀脇は草地だったが、昭和44年(1969)に「噫戦艦大和之塔」が建立。昭和53年(1978年に子規句碑が移設され、昭和57年(1982)の道路拡張工事に伴い整地され、レンガ塀も解体されて現在の姿になった。
整備と同時に建てられたのが「旧呉海軍工廠跡記念塔」で、この場所もその眺望から呉の歴史をたどれる高台という意味で「歴史の見える丘」と名づけられ。
翌年には、明治期の呉の実力者澤原為綱(さわらためもと)翁の銅像台座が二河公園から移設されている。平成時代になってからも、戦死したアララギ派歌人渡邊直己(なおき)の歌碑、戦艦大和を建造したドッグの石を使った「造船船渠記念碑」などが建てられた。
<呉海軍工廠の概要>
東洋一と謳われた呉海軍工廠は、製鋼、造船、砲熕、水雷、造機などの艦装設備を一貫して製造する機能を備えた一大総合工場群であった。ここで建造された「戦艦大和」は、その技術の集大成とも云えるものであり、工廠で働いた幾十万の人々の心と技術、並びに旧海軍施設は、今日の平和産業港湾都市「呉」として生きつづけている。 |
|
|
|
|
|
|
|
<戦艦大和之塔 建塔の由来>
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和12年(1937)年11月仮称第一号艦として起工、昭和15年(1940)年8月8日機密裡に進水、翌年(1941)12月16日竣工、直ちに聯合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、昭和昭和20年(1945)4月7日国民の全く知らぬ内に、乗員3千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦だった。
その頃(1940年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとしていた。大和の主砲は口径46cm、長さ1.98m、砲弾長さ1.98m、重さ1.46t、着弾距離42,000m(この地から岩国附近まで飛ぶ)世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘であった。
巨砲三門をならべた砲塔は直径13m、重量2,700余t、もあることなどから特別に設計されたことで、幅(最大幅36.9m)が広くなり、全長263m、排水量(公試状態)69,100tを越えましたが、(全力)27.46ノットの高速艦だった。
建造には5万を数えた呉海軍工廠の従業員が4箇年余の短期間で、延約300万人の力と、当時1億1千万円の巨費ももって完成したのです。
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みでした。
然しながら、明治維新以来80年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いたはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っている。これまことに「大和は沈んでも その技術は沈まなかった」といわれる所以である。
軍艦大和は日本人の手で設計し、呉海軍工廠において建造された見地からこれを生んだ呉海軍工廠跡を一望できるこの高台に全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設し、もって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、その悲愴な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものです。
昭和44年(1969)年8月8日 戦艦大和第30回進水記念 呉大和会発起人8名 |
|
|
|
上左画像:戦艦長門の徹甲弾(てっこうだん)。上右画像:戦艦大和主砲の徹甲弾、直径46cm、長さ1m98p。 |
|
|
|
|
|
<造船船渠記念碑由来>
この記念碑は 呉海軍工廠内に、明治41年(1908)11月起工、明治44年)1911)3月竣工以来昭和46年(1971)11月その幕を閉じるまでの間、数々の船舶を生み出してきた造船船渠を記念して、船渠側壁の石をそのまま用い、渠底に降りるための階段部分を再現したものです。
完成時の船渠の大きさは、長さ270m、幅35m、深さ11mで、当時東洋一の規模を誇った。建設に用いられた石材は、国会議事堂の壁材にも用いられている倉橋島産のものが使用され、止水用の粘土は豊田郡安芸津町から、また、石の下に敷き詰められた砂利と砂は夫々山口県・今津川と県下・太田川からといった具合に、材料も厳選されたものが用いられた。
この船渠で、戦前は戦艦「大和」「長門」を始め幾多の艦船が、また戦後は、世界初の10万屯級タンカー「ユニバースアポロ」ほか時代を代表する商船が次々と建造されてきた。
船渠閉鎖後も造船工場の一部として原形をとどめたまま今日まで利用されてきたが、この度装いも新たに新鋭工場として生まれ変わることとなったため、この由緒ある船渠の一部を記念碑として造船所を臨むこの地に設置したものです。 |
|
|
|
|
|
<旧呉海軍工廠礎石記念塔> 上左画像
この記念塔は 旧呉海軍工廠の面影をしのぶよすがとして残存した工廠礎石を集め此所「歴史の見える丘」の一角に建立したものです。煉瓦は旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材 縁石は堺川にかかる二重橋に使用されていた御影石構造の踏石です。
頭部にあるカモメのブロンズ像は日本彫塑会会員・般若純一郎氏の作になるものです。 昭和57年(1982)年3月 呉市
上右画像は、ここで建造された戦艦や巡洋艦などの軍用艦。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
海軍工廠の伝統を引き継いだ現在の呉港の様子。(説明文は現地解説文を引用) |