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<薩摩暦と明時館(天文館)> ー日本の暦と薩摩の関わりー
現在、日本を含め世界各国で広く使われている暦は太陽暦の一つであるグレゴリオ暦です。日本では明治5年まで太陰暦が使われていたが、太陰暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年(1873)1月1日とする改暦が行われ、現在に至っている。
日本の暦は、古くは中国から輸入した暦が使われていたが、室町時代になると地方で独自の暦も製作され普及するようになった。ところが、江戸時代の貞享2年(1685)、幕府により貞亭暦への改暦が行われと、暦の作成は幕府の天文方の業務となり、暦の内容も全国的に一律的なものになった。
薩摩暦では中世以来、独自の暦を作ってきたと言われているが、この貞亭改暦以降、幕府の天文方に藩士を派遣して天文暦学を学ばせた。
薩摩の開明政策を推し進めた島津家第25代島津重豪は、安永8年(1779)、天文観測所である「明時館」を創設した。ここでは、渾天儀、枢星鏡、ゾンガラス(サングラス)などを使って天文観測が行われ、薩摩ではその成果をもとに独自の「薩摩暦」を作成しており、幕府から特別に藩内の暦を作ることを許されていた唯一の藩でもあった。なお、いつ幕府の許可を得て、いつから藩内の作暦を始めたかについては諸説がある。
この明時館は「天文館」とも呼ばれ、これが鹿児島の繁華街「天文館」の名の由来ともなっている。 |
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<「おやつ」・「七つ立ち」>
時刻の表し方には色々な方法があったが、その一つとして江戸時代には、「明け六つ」「暮れ六つ」のような表し方があった。それは夜明けと日暮れを境にして昼と夜を区別し、昼と夜をそれぞれ等分して時刻を決める方法(不定時法)であった。
そのため季節により昼と夜の長さが異なっていたが、庶民は寺などで鳴らす時の鐘で時刻を知った。
現在使われている「おやつ」という言葉は「昼八つ」頃に食べることに由来する言葉です。また、有名な道中歌に「お江戸日本橋七つ立ち・・・」と歌われているが、これは「七つ」すなわち午前4時頃宿場を旅立った、ということに因んだものです。 |
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