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この施設は、小樽市の旧国鉄手宮線活用計画に基づき、かつての「色内駅」をモチーフとした休憩施設として平成22年(2010)に設置された。
旧「色内駅」は大正3年(1914)に色内仮停車場として開設、その後、閉鎖や再開を経て、昭和18年(1943)5月には「色内駅」へと昇格したが、同年10月にはまた休止。戦時色濃い時代背景の中、複線だった線路も、鉄の供出のため単線化されたりもした。
昭和37年(1962)5月15日、手宮線の旅客営業の廃止にともない廃駅となるまで、約50年間にわたり、「北のウオール街」とも言われた街中の好立地にありながら、再開、休止を繰り返す数奇な運命をたどった。
「小樽雪あかりの路」手宮線解錠は、明治13年(1880)に日本で3番目の鉄道として開通した歴史の重みを大切にしながら行われている。 |
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<旧手宮線>
旧手宮線は北海道の最初の鉄道である。明治政府は、日本の近代化を図るため、石炭など北海道の豊富な地下資源に注目し、その開発と輸送を目的に鉄道建設に着手した。
そして、明治13年(1880)北海道最初、日本で3番目の手宮線(手宮〜札幌間、後に三笠まで延長)が開通した。北海道の鉄道工事は、アメリカの技術によって進められ、蒸気機関車もアメリカから輸入された。 |
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色内駅は、大正元年(1812)8月11日に手宮線の最後に開設された旅客専用駅だった。手宮線開通により石炭、穀物、木材などの交易の港湾都市として小樽を発展させ、色内駅周辺は日本銀行をはじめ、多くの金融機関が軒を連ね「北海道のウオール街」と称させるほど賑わいがあった。
アメリカ製の蒸気機関車「義経」「弁慶」で牽引する手宮線はハイから列車と呼ばれ、ハイから好みの人たちの間で人気を誇ったものだった。
昭和36年(1961)10月に駅を休止し、手宮線として昭和60年(1985)11月5日に全ての運輸営業が廃止された。 |