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爆心地から460mの位置にある袋町小学校は、原爆によって大きな被害を受けた。当時、多くの児童は疎開により被災を免れていたが、残っていた児童のほとんどが一瞬にして命を失った。
また、木造校舎はすべて倒壊・全焼し、唯一鉄筋コンクリート造だった西校舎だけが外郭のみ原形をとどめた。その一部が当資料館です。
西校舎は、被爆直後から被災者の救護所として利用された。その時、被爆者の消息を知らせる「伝言」が壁面に数多く記され、現在も残っている。「伝言」は、当時の惨状を伝える貴重な資料です。
当資料館では、被爆建物として西校舎の一部を保存し、「伝言」をはじめ袋町小学校の残された被爆資料を展示するとともに、被爆直後の学校の様子を紹介している。 |
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昭和20年(1945)8月6日は、朝早くから強い日差しが照りつけていた。午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が投下され、広島市の中心部、島病院上空の580mで炸裂した。
被爆面積は、全市の70%、焼失面積は、全市の40%。急性障害が一応おさまった昭和20年(1945)12月末までに14万人(広島市推計)が死亡した。
当時の袋町国民学校は、南・北校舎のほとんどが防災委のため引き倒され、北校舎西側2教室と講堂、そして西校舎だけが残っていた。被爆によって西校舎以外の木造建物はすべて倒壊。全焼した。鉄筋コンクリート造3階建てだった西校舎は外郭だけ原形をとどめていたが、3階の柱は折れ、窓枠も吹き飛ばされたり湾曲したりし、燃えるもの一切が消失した。 |
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<被爆により壊れた扉と窓>
ここから25m南の位置にあったもので、被爆時の衝撃による傷跡が残っている。西校舎の解体に伴い、切り取って移設、保存した。
<炭化した「木れんが」が残っている壁>
木れんがとはコンクリート面に木材を取り付けるための木片のことで、この壁は、図書室(解体前)の腰板壁の裏から見つかったものです。この木れんがは。被爆時の火災によって炭化したものと思われる。 |
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被爆の時に袋町国民学校にいたほとんどの児童が一瞬で命を失ったと思われていた。ところが、昭和42年(1967)から広島大学原爆放射能医学研究所が続けてきた「原爆被災全体像調査」の過程で、生存者がいたことが分かったのです。
それは、その時たまたま西校舎の地下室にいた3人の児童です。鉄筋コンクリート造だった西校舎の、さらに深さ3m、天井の厚さ20〜30pの地下室だからこそ起きた奇跡といえる。
一人(Aさん)は、登校してゲタ箱のあった地下室に入った瞬間に、また一人(Oさん)は、はだしでグラウンドにいたため、地下室に運動靴を取りに行き、戻ろうとした階段の途中で、そして、もう一人は、ゲタ箱で運動靴に履き替えていた時に、被爆したのだった。 |
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<患者村上の文字が記載されている柱>
上左画像は、被爆直後に救護所として使用されていた部屋の柱の一部を切り取ったものです。村上姓の患者が救護所にいたことが述べられていた原爆体験記があり、その筆者(患者の夫)の長女から、「患者村上」は自分の母のことではないかと申し出があった。
<爆風により吹き飛ばされたという太鼓>
爆風により運動場に吹き飛ばされたといわれている太鼓。西校舎の廊下に置いて始業・終業などの時を報せていた。 |
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被爆から2ヶ月後の昭和20年(1945)10月に文部省(現・文部科学省)の学術調査団が撮影した写真により、西校舎内の壁面が「伝言板」として使われたことは分かっていた。
被爆後、西校舎は、改修や補修を行いながら使用したが、老朽化が著しくなったことから改築し、一部を被爆建物として保存することになった。
保存方法の検討に際して、平成11年(1999)3月、写真に撮影された1階階段の南側壁面の漆喰の一部を剥がしたところ「寮内」の文字が見つかった。漆喰の下にも今もなお伝言が残っていることがわかったのであった。
このため、西校舎全体について本格的な調査を実施した。その結果、児童館(解体前)として使用されていた教室の黒板裏の壁面にチョークで書かれた伝言文字が見つかったことなどから、保存計画の見直しを行い、当初予定していた保存範囲を広げ、「袋町小学校平和資料館」として整備した。 |
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これらの伝言は、煤(すす)が付いた壁の上にチョークで書かれたもの。その後漆喰が塗られ、チョークや煤は漆喰に吸収されたが、チョークの下にあった煤の部分が文字として残ったものと思われる。(画像と解説は袋町小平和資料館の展示物から引用) |