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<建物の内部の様子> |
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<焼け焦げた配電盤> |
<熱風によって焼けた戸枠> |
昭和20年(1945)8月6日(月)、午前8時15分。原子爆弾は本川小学校の南東約350m・上空約580mで爆発した。強烈な熱風と放射線をあびた校舎は外部を残して全焼、壊滅し。校長先生など10名の教職員と約400名の子どもたちの尊い生命が一瞬のうちに奪われた。奇跡的に生き残ったのは2人だけだった。焼けただれた残骸は、被爆翌日から、臨時救護所となった。外郭だけの校舎だったが、被爆翌年の昭和21年(1946)2月から授業が再開された。
この平和資料館は昭和3年(1928)に広島市として初めて建てられた鉄筋3階建ての校舎の一部だが、原子爆弾の被害を受けた状態をそのまま残し、被爆の「証」として保存することにした。
展示室には被爆の様子を写した写真と被爆した遺物などを展示している。また、地下室はここで亡くなられた多くの方々のご冥福を祈る「祈り」の場として残している。
多くの人々の悲しみと願いが秘められたこの「平和資料館」から、平和の大切さと人命の尊さを学んでいただきたいと思います。昭和63年(1988)5月 |
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<広島産業奨励館バルコニーの柱> (現・原爆ドーム)
平成21年(2009)7月、原爆ドーム前の河川敷から引き上げられた。原爆により吹き飛ばされた、広島県産業奨励館のバルコニーの一部です。御影石という、表面がつるつるとした石が元々の材料だが、被爆した際に石が焼けて手触りは変わっている。
<ドームの石柱 引き上げプロジェクト>
原爆ドーム正面の元安川河岸に、干潮になると姿を見せる4点の花崗岩。平成21年(2009)6月、これらが産業奨励館当時のバルコニーの手すり部分のものを含む、ドームの一部であることが確認された。
本展覧会の開催に際し、これらを引き上げるプロジェクトが始動した。7月12日(月)、本川小学校6年生児童や市民有志の手で、それら4点が引き上げられた。バルコニーは産業奨励館正面5階に位置し、手すりは21本あったが、被爆により南側1本を残して崩れた。今回引き上げたののうち2点がこれにあたり、ドーム周辺の敷地内には他の数本が現在も散在している。
かつては高いバルコニーの一部として広島の街と人々を見つめ続け、その後65年の年月を川の中から被爆後の広島の復興を見守り続けた石柱は、およそ1世紀もの街の変遷を、どのように見つめ続けたいたのだろうか。 |
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<校庭から掘り出された遺物>
平成16年(2004)、本川小児童6年生が、校庭の南側でビオトープ造りを行った。その際、土を掘り進めていくと、熱で溶けて固まった物、熱風、爆風にさらされた物がたくさんでてきた。これらはその一部です。 |
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<三八歩兵銃>
この三八歩兵銃は、校舎を新築するときに土の中から発見されたものです。本川小学校では、今でも畑や花壇を50p位耕すと植木鉢や茶碗の溶けた塊、レンガのかけらなどが出てくる。おそらく広島市内のどこも同じような状態ではないかと思われる。 |
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<屋根瓦> |
<缶詰> |
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<破壊された広島の街>
原子爆弾は、市中心部の上空約600mで、目もくらむばかりの閃光を放って爆発した。爆心地から半径3qまでの建物のほとんどを破壊し、街を焼き尽くした。
市を破壊し、焼き尽くした原子爆弾の熱線・爆風は、市民のうえに容赦なく襲いかかった。そのうえ放射線による被害も加わり、その年の内におよそ14万人の市民が亡くなった。
このパノラマ模型は、被爆直後の広島の惨状がわかるように、爆心地を中心として半径2.5〜3qの範囲内を再現したもので、以前は、平和記念公園の中の広島平和記念資料館に展示されていたものです。(画像と説明は、本川小学校平和資料館の展示物から引用) |