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<爆風圧でへこんだ校舎(米軍撮影)> |
<被爆後の教室(米国戦略爆撃調査団撮影)> |
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<校舎左側のくず折れた鉄骨は講堂の残骸> |
<原爆慰霊碑>
あまねくとどけ 平和の祈り
(被爆50周年記念として 本川地区原爆慰霊碑建立委員会之を建つ 平成7年11月3日)
<碑に寄せて>
昭和20年(1945)8月6日午前8時15分相生橋上空五百数十米にて爆発した1発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。
廃墟となったこの学校は臨時救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当する術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じ得ない。
この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。平成7年11月3日 本川地区原爆慰霊碑建立委員会(横の石碑)
横の石碑の台座は、本川小学校校庭の被爆石が使われている。 |
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本川国民学校(現在の本川小学校)は爆心地に最も近い場所にあった学校で、その距離350m・約400人の児童、10人の教職員が犠牲となった。校舎は外郭を残して全焼したが、被爆後も補修・改修を繰り返して使用された。
校舎建て替えに伴い、一部が保存され、昭和63年(1988)、平和資料館として整備された。(画像と説明は、本川小学校平和資料館の展示物から引用) |
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