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昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下した。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160m地点の上空約600mで炸裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死した。
しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となった。
戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、原爆ドームと呼ばれるようになった。 |
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原爆ドームについては、当初、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方があった。
しかし、市街地が復興し、被爆建物が姿を消していく中で、保存を求める声は次第に高まりをみせ、昭和41年(1966)、広島市議会が原爆ドームの保存を決議した。これを踏まえて、保存工事のための募金運動が行われ、国の内外の平和を願う多くの人々の寄金により昭和42年(1967)、第1回目の保存工事が行われた。その後も、数回の保存工事が行われ、原爆ドームは被爆当時の姿を今に伝えている。 |
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原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により大正4年(1915)4月に広島県物産陳列館として完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれてきた。
館は、県物産の展示・即売、商工業に関する調査・相談などを業務としていたが、美術展や博覧会など文化事業にも利用されていた。
その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、業務の拡大が図られていったが、戦争の長期化・激化とともに業務が縮小され、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用された。 |