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<変形したガラス瓶>
大火災により高熱で変形したものです。 |
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<広島陸軍被服支廠のレンガ塀とゆがんだ鉄扉>
レンガ塀は、強烈な爆圧振動で塀の上部がずれ持ち上がった。窓の鉄扉は爆風によって押し曲げられた。爆心地から2,670m |
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<印鑑などが入った小物入れ>
中島国民学校5年生の大久保睦子さんは、原爆投下当日、学校に登校したが、現在も行方不明のままです。出がけに「行ってまいります」と言ったのが母親との最後の会話になった。
後年かばんなどの持ち物が届けられ、母親は形見として大切にしていた。この小物入れは、かばんの中に入っていたものです。
** 母親・さかえさんのお話 **
天国には白いきれいなお花があるから、早く天国に行きたいんだって、3つや4つのころから言っていましたから、 |
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<ベルト、ズボン、下着>
このベルト、ズボン、下着は市立中学校1年生だった三上直樹さん(当時12歳)が、被爆当日に身につけていたものです。直樹さんは、朝礼のため校庭に出ていた際に被爆した。重傷を負いながらも母親のいる自宅にたどり着き、救護所に運ばれ手当を受けたが、その日のうちに亡くなった。爆心地から1,400m
** 母親・五月さんお手記より **
「お母ちゃん」とありたけの力を絞り出すような声がして、直樹が帰ってきました。パンツ一枚の体になり、肩から背から血が流れています。救護所で手当をしてもらう事が出来たのですが、既に、死は目前に迫っていました。
「お母ちゃん、泣いてはいけん、これだけの大きな戦争で、学徒の僕たちが、生きておられることのないのは覚悟しとったよ……。お母ちゃんは人のためになる事を……」と、言い切らぬうちに、息を引きとりました。 |
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<三輪車、鉄かぶと>
銕谷伸一さん(当時3歳11ヶ月)は、この三輪車で遊んでいる時に被爆した。全身に大けがで大火傷を負った伸一ちゃんは「水、水……」とうめきながらその晩亡くなった。父親は、伸一ちゃんにこの鉄かぶとをかぶせ、死んでからも遊べるようにと三輪車とともに庭に埋めた。
父親は被爆から40年後に遺骨を墓所に移すことにした、これらを掘り起こした時、鉄かぶとの中には伸一ちゃんの丸い頭の骨が残っていた。
父親は伸一ちゃんのほか、倒れた家の下敷きとなった長女の路子さん(当時7歳)と次女の洋子ちゃん(当時1歳)も亡くしました。爆心地から1,500m |