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<引揚機・零式水上偵察機>(E13Ala)
すぐれた航続力と搭載力をもつ本機は、太平洋戦争中の全期を通じて、海軍作戦地域の全域にわたって活躍し、偵察のほか、哨戒、攻撃、連絡輸送から救難にまで幅広く使われた。
ここに展示してある飛行機は、当時極秘であった八木アンテナ(電探)を付けた日本に唯一現存した珍しい機体で「水偵302」の表示があることから、福岡を離水、沖縄方面の探敵から帰途中燃料切れで不時着したものである。
この飛行機は海軍のフロート付水上偵察機であって、ここ万世陸軍飛行場から出撃した特攻機ではない。
なお、引揚げ後の機体整備にあたっては、海上自衛隊鹿屋航空工作所の支援をいただいた。 |
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<零式水上偵察機>
日本海軍は、昭和12年(1937)に高性能の長距離三座水上偵察機の試験研究を航空機製作会社に要請し、これを受けた関係者は研究試作を続けた。そして、「低翼単葉三座水上偵察機」を完成、海軍は昭和15年(1940)12月に正式に偵察機として採用することになった。
その後、昭和20年(1945)までの間に、3工場で1,423機が製作されたが、この間、水上偵察機の特徴である「浮舟」関係の改良が行われたのをはじめ、夜間偵察用機は排気管を延長したり、各種の探査装置を装備するなど、その目的によって装備の充実が図られた。そして、偵察のほか哨戒・連絡・攻撃・輸送さらには救難にまで利用され、水上機ならではの多用途機としての役割を果たし、太平洋戦争中の全期を通じて日本海軍作戦地域の全域にわたり活躍した。
しかし、数々の活躍をした「零式水上偵察機」もそのほとんどは太平洋戦争中に姿を消しており、当館に展示されている「三座水上偵察機」はかつての勇姿を偲ばせる貴重なものとして、関係者の関心が高い。 |
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<旧日本陸軍98式直協偵察機のエンジン・プロペラ>
昭和59年(1984)1月、茨城県鹿島灘沖2,000m、水深25mの海底から、操業中の漁船の網にかかり引き揚げられたもので、旧陸軍の特攻機として使用された機種の1つであったことから、旧隊員の苗村七郎、佐藤平蔵、遠藤武、阿尾新次郎の4氏が橋渡し役となり、拾得者の篠塚誠治(誠栄丸船長)氏から加世田市が無償で譲り受けたものである。
<竹製 落下燃料補助タンク>
太平洋戦争の末期に陸軍の戦闘機に装備されていた補助燃料用の落下タンクです。飛行機の飛行距離を伸ばすため使い捨ての補助燃料タンクが使われていた。竹製だけではなく木製の落下タンクも使われた。
戦闘機にはこのタンクと爆弾をそれぞれ方翼に1基ずつ装着し、落下タンクは戦闘開始前に切り離し、落下してから体当たり攻撃した。
「展示している落下タンクの概要>
長さ |
1.5m |
胴回り |
1.4m |
容量 |
約200ℓ |
材質 |
孟宗竹の網組み |
外装 |
厚手の和紙 |
内張り |
特殊な塗装を使用 |
中支え |
ベニア |
製造地 |
長野県 |
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<「小犬を抱いた特攻隊員」の写真>
この写真は、昭和20年(1945)5月26日写されたものと思われる。翌日、早朝5人は沖縄の空に出撃し散華した。
写真はひとり歩きし、知覧飛行場から出撃したかのようにも・・?。でも撮影場所は「万世飛行場」だった。
宿舎の飛龍荘から父親へあてた1枚のハガキがある。出撃当日(昭和20年5月27日)付けの消印と宿舎の住所が川辺郡加世田町飛龍荘内と書かれている。
文面も「最后の便りに致します」ではじまり「弟達及隣組の皆様に宜しく・さようなら」としたためられている。
この1枚のハガキが「万世飛行場」から出撃したあかしとなった。
群馬県前橋市の「上毛新聞」の記者が、平成14年(2002)8月の終戦記念日を前に群馬県出身の特攻兵について取材したシリーズが、17歳で特攻兵として沖縄の空に出撃散華したした「荒木幸雄」伍長の想いと記憶を蘇らせており胸につまるものがある。
写真の右端で、小犬を抱いている特攻隊員の肩に右手をかけている姿を見て気がつくことがある。それは、腕を曲げているにもかかわらず、手首が軍服の中に入っているということです。軍服のサイズにも合わない少年だったということでしょうか。彼らは今でいえば高校2年生・17歳ぐらいだ。現在の高校生の体格は当時とは比べものにならないが、17歳程度で特攻隊員となった亡くなっていった歴史的事実は非常に重い。 |
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旧万世陸軍航空基地の滑走路跡。県立吹上海浜公園方面から吹上浜に向かっている。画像の手前方面が海浜公園・吹上浜にあたる。現在は並木道の道路になっている。
<万世飛行場からの出撃>
・特攻振武隊 出撃回数29回 戦死者数121人
・第66戦隊 出撃回数19回 戦死者数72人
・第55戦隊 出撃回数5回 戦死者数6人
・その他 戦死者数2人
・合計(戦死者数)201人
出撃した航空機は、99式襲撃機(上左画像)や1式戦闘機(隼)などが使われた。 |
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<万世特攻平和祈念館>
日本三大砂丘の吹上浜に昭和19年(1944)の終わり頃、陸軍最後の飛行場が建設された。しかし、終戦間際のわずか4か月しか使われなかったので『幻の特攻基地』といわれている。そして、この万世特攻基地から17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員が祖国を護るため沖縄に出撃していった。
特攻隊員には遺骨はない。しかし、この世に書き残した遺書がある。その”至純の心”を綴った『血書』や遺品の本物を二階に、一階には吹上浜沖から引き揚げられた日本に一機しか残っていない「零式三座水上偵察機」を展示してある。
平和祈念館の外観は、少年飛行兵たちが大空に憧れ初めて飛んだ練習機「赤とんぼ」の複葉型を模し、大屋根に平和を祈る合掌をイメージした「複葉合掌型」になっている。慰霊碑は、昭和47年(1972)に特攻隊の慰霊顕彰を目的に建立され、旧町名「万世」をも意味する「よろずよに」と刻銘されている。 |
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<営門>
左右の門柱は、昭和18年(1943)7月から19年(1944)末にかけての太平洋戦争のさなかに建設された万世陸軍飛行場(特攻基地)の営門で、ありし日の面影を残すものの一つです。
当時、軍の機密は厳重を極め、この営門には武装した衛兵が24時間立哨の任務についていた。飛行場への出入りはすべてこの門からであり、万世基地から沖縄戦に出撃、突入した若き特攻隊員も、ここを通ったのである。 |
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<平和祈念館設置にあたって>
この平和祈念館は、かつての熾烈を極めた太平洋戦争の末期、本土防衛、沖縄決戦の第一線基地として建設された「万世陸軍飛行場」の一角にあたり、ここから多くの若い隊員たちが、祖国護持の礎たらんと若き至純の使命感と情熱をもって、南溟の大空へ飛び立って征った悲痛な思い出の地である。
特攻隊員には遺骨はない。しかし書き残されたものはある。航空隊員にとって爆弾を抱いて最後に飛び立った基地「万世」(ばんせい)が戦死の地なのである。この地に、かつて大空に憧れ飛んだ懐かしい複葉練習機を型どり、全国の人びとの強力を得て建設されたこの平和祈念館に、特攻隊員の遺影や遺書を安置し、展示することは誠に有意義なことというべきである。
今日の日本の平和と繁栄は、散華された英霊の犠牲の上に築かれたものであり、平和は血と涙によってもたらされたものであることを正しく後世に伝えていくことは、残された私達の責務であると信じ、平和への祈りを新たにしたいものである。 |
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