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網走監獄歴史館は、網走監獄に関する歴史的資料や網走に監獄が設置された理由を「赫い囚徒の森」体感シアターを中心に紹介している。新法に基づく現在の網走刑務所居室を忠実に再現しているので、矯正施設の役割を担う刑務所を学ぶことができる。 |
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<鉄丸>
明治14年(1881)改正監獄則で制定された戒具である。逃走の恐れのある無期徒刑因、重罪、軽罪を犯した囚人で、獄舎や器具を破損または暴行、脅迫などを行った者に装着した。 |
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たわし(左)、煙突の煤とり(右) |
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<プラウ>(上左画像)
プラウは用犂(ようすき)とも画き、日本古来の和犂に代わって北海道に普及した畜力耕具です。プラウなどの西洋農機具が北海道へ入って来るのは、明治初年のことである。
<鞍(網走刑務所の印入り)>(上右画像)
荷物や人を乗せるために馬の背に置くものを鞍(くら)という。網走刑務所で使用していたものには、刑務所産であることを示すために、あらゆる製品に桜花の紋が入れられていた。 |
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<共同室>
共同室は、原則として6名が収容される。網走刑務所の新しい共同室の部屋の広さは27u(約16畳半)で、83の共同室がある。(平成22年(2010)1月現在)。
居室の内部には被収容者が使用する机、布団が置かれている。洗面用具、書籍などの私物(自弁品)は、収容者それぞれに与えられた収納棚に置くことが許されている。集団で生活するため配置場所などはしっかりと決められている。
自弁品とは、自分の作業賞与金で購入した物品。刑務所で指定した物品の中から購入する。 |
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(朝食) (昼食) (夕食) |
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<単独室>
単独室には、原則として1名で収容される。網走刑務所の新しい単独室の広さは7.52u(約4畳半)です。
現在、日本の刑務所は、単独室の数を大幅に増やし、被収容者の居住空間の向上に努めているので、網走刑務所においても単独室は938部屋となり(平成22年(2010)1月現在)、共同室に比べて格段に多くなっている。
各室内には机、布団が置かれている。被収容者は身の回り品の他、室内装飾品として写真や花瓶を置くことが許されている。 |
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囚人服 |
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<押切り>
笹や野草、牧草などを適当な長さに切断する道具。
<玉橇(そり)>
木材を伐木現場から大型の馬橇が入る山土場まで運ぶときに使用した集材用馬橇。堅く丈夫なナラ、イタヤ、カバなどで作られた。 |
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<散髪用の椅子>
刑務所では、囚人の中で理容師・美容師であったものや、適性のあるものを理容夫として訓練し、囚人たちの散髪にあたらせていた。この椅子は、網走刑務所の農場で戸外に持ち出して使用されいたものである。
<草鞋>
北海道や東北で使用されていた雪国仕様の草鞋(わらじ)で、つま先に覆いがあるのが特徴です。稲の栽培がほとんどできなかった北海道は、藁がとても貴重だったので、ぼろぼろになっても履いていた。 |
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<足袋>
囚人の衣類は、昭和19年(1044)8月に様式のジャンバー・ズボン型に変わるまで、和襦袢股引型だったので、足元もも足袋(たび)をはいていた。戦前までは網走刑務所内の縫製工場で製作したものをはいていた。
<鼻緒>
上右画像は下駄の鼻緒(はなお) |
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<島田鍬>
開墾用の鍬(くわ)には、唐鍬、島田鍬、窓鍬などがある。唐鍬はその名が示しように中国大陸から伝わり、島田鍬は北海道で生まれた。刃部が弧をえがき、刃板も内面に反っていて、形が日本製の島田髷(まげ)に似ていることからこの名がつけられた。
<足踏み脱穀機>
上右画像 |
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<突き飯器>
囚人の主食を盛り付ける道具。作業の種類により、飯の量が1等から5等まで区分されていた。この器で盛り付けると、飯の上部に一・二・三・四・五と数字が付くようになっている。
<背づり>
馬橇(そり)用、農耕用の鞍。もみ殻やおがくずが詰められていて、表と裏の革は亜麻糸で縫われている。 |
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<蓑>
藁(わら)、菅(すげ)、茅(かや)などを編んで作った雨具。背中から肩にかけて着物のように羽織って着た。冬には防寒具としても利用された。
<霧吹き>
裁縫工場で使われた霧吹き。 |
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<弁当箱>
外役作業に出て昼食をとる時は、この赤い弁当箱(箱弁)を持って行った。囚人番号が刻まれた箱弁の中は、主食の麦飯と梅干しのみだったが、食事が楽しみの全てでもあった。
<野菜の行商>
自給自足を基本とする刑務所では、受刑者が自分たちで調理して食べるために野菜を作っている。では、余った場合はどうしたか。
網走刑務所では、余った野菜を模範囚が市内に運んで売りに行った。安い上に美味しいということで、市内の主婦たちに大人気だったという。それだけに、町の店の商売を邪魔しないよう、郊外の住宅地で販売するなどの配慮があった。 |
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左から菅笠・ツマゴ・深沓(上左画像)、籠(上右画像)
<網走監獄の歴史>
明治18年(1885)、北辺の巨大な島・北海道に開拓の先兵として重罪囚を送り込み、廉価な労働力で開拓を進めるという、「北海道三県巡視復命書」が金子堅太郎によって政府に提出され採択された。内務卿の伊藤博文、山県有朋らの懲戒主義論もこれを後押しした。
こうして北海道集治監は帝政ロシア南下の脅威から北海道を守るという国家的使命を与えられることになった。網走集治監は、中央道路開削という重要な任務を担うことになり、明治23年(1890)に釧路集治監の外役所として設置される。これが網走監獄の始まりである。
当時の網走は、広大な土地に人口わずか631人という小さな漁村であった。そこに1200名の囚人と看守173名が一挙にやってきて、網走の街は驚くべき変貌を遂げたのです。
かくして北海道集治監は明治10年代から30年代まで北海道開拓の起動力として運営された。そして、先陣を切って北海道を開拓したという大きな功績と、約3000名にも及ぶ囚人の犠牲を出したという負の遺産を残した。 |