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<旧第十二師団司令部の正門>
旧第十二師団司令部の正門 明治8年(1875)に、歩兵第十四連隊が小倉に設置されました。同18年(1885)、小倉城松の丸跡に、既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が開設された。
ついで、日清戦争後の軍備拡張のため、同31年(1898)小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞砲兵連隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられた。
この煉瓦造の正門は当時のもので、明治32年(1899)6月から第十二師団の軍医部長を務めた森鴎外もこの門を通って登庁した。なお、司令部は軍縮により、大正14年(1925)、久留米に移転することになった。
<鉄門跡>(くろがねもんあと)
藩主及び家老など、ごく限られたものは槻門(けやきもん)を通り、鉄門はそれ以外の武士などの登城口でした。現在、一部復元しているが、中央部目地の左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が火熱を受けて赤く変化している。(当時の階段の幅は約2.1mだったが、防犯上の関係を考慮して幅を2倍に広げている。)ここからは、鉄製鎧片、中国製磁器、三階菱文様丸瓦などが出土している。
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<四年式十五珊榴弾砲>
大正4年(1915)に制式制定された榴弾砲です。昭和に入ると珊(サンチ)は糎(センチ)と改称された。サンチはセンチのフランス語読みです。高仰角の曲射弾道で射撃し、野戦に便利なように砲身をある程度短くするなどした火砲は榴弾砲、直射を主に行う火砲はカノン砲といった。この重野砲は、砲自体を運ぶ砲身車と砲架車に分離でき、機動力が増進した。射程距離は概ね9,000mでした。
<大砲と彈薬>
この彈薬は榴彈(重さ36s)というが、この外に榴霰彈(彈子1050箇収容)破甲榴彈發煙彈等があって堅固な陣地や構築物の破壊或は密集部隊等に対し夫々の目的用途によって使用された。薬筒にはいろいろな薬色を蓑薬して發射されたがその射距離約9,000mに達した。
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