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<尾州領傍示石>
中山道は鵜沼村(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼領に入った。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てた。
この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道に戻した。各務原市の大切な歴史遺産の一つになっている。 |
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<安積門> (旧大垣城鉄門
安積門(あずみもん)は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶9年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれている。各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築された。
規模は、間口約5.7m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称される。高麗門とは、左右2本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきた。
当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられる。
当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存している。 |
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<中山道鵜沼宿町屋館> (旧武藤家住宅)
中山道鵜沼宿町屋館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和30年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家住宅です。平成18年(2006)、各務原市が建物の寄付を受けて公開している。
屋敷は、中庭を囲むように主屋、東側の附属屋、西側の離れの三棟からなる。主屋は明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊し、その後、再築されたものです。附属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられる、養蚕小屋として利用されていた。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものとみられ、太田宿から移築されたものと伝えられている。
三棟とも市の指定文化財・景観重要建造物に指定されている。内部では鵜沼宿に関わる歴史資料を展示している。 |
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<鵜沼宿本陣跡>
鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じ桜井家が務めていた。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来、桜井家は本陣・問屋。庄屋の三役を兼ねていたと伝えられている。
寛延2年(1749)十代将軍家治に興入れ した五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入典の行列をともなって宿泊・休憩したりした。文化6年(1809)伊能忠敬ら測量方
も宿泊している。
「中山道宿村大概帳 」天保14年(1843)に、「本陣凡そ建坪百七拾四坪余り、門構え・玄関付き」と記されている。御上段・ニ之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれている。明治維新後、鵜沼第一小学校前身の新々義校は、ここに創設された。
<菊川酒造> (本蔵・豆蔵・一号倉庫・二号倉庫)
中山道の南側に並び建つ2棟の蔵は、東側を本蔵、西側を豆蔵と呼ぶ。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材に籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っている。豆蔵は、創業した明治時代初期に、他所より移築されてきたと伝わっている。小屋組は登り梁形式で、柱や梁に転用材が多く使われている。
敷地東側の細い路地に沿って建つ蔵は、一号倉庫・二号倉庫と呼ぶ。明治時代後期の建物で、外観は一棟ですが、内部には完全に仕切られた壁がある。小屋組は、北側は登り梁で、南側は洋小屋トラスと形式が異なる。
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<鵜沼宿脇本陣>
鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めた。坂井家の由緒は古く、貞享2〜5年(1685〜88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられている。
史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれている。また「宿村大概帳」天保14年1874)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれている。なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復原している。 |
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<板井家住宅> (丸一屋)
板井家住宅は中山道鵜沼宿に面する住宅で、主屋は建築時の契約書が残っており、明治27年(1894)の建物である。中山道に向かって門を構え、前面に塀をめぐらしている。
主屋は門を入った正面に切妻造りの破風をつけ、式台玄関を設ける格式高い造りである。また、土蔵は敷地の南東にあり、二棟が合体して一棟の姿となっている。 |
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<梅田吉道家住宅> (茗荷屋)
梅田吉道家住宅は鵜沼宿に面する住宅で、江戸時代は「茗荷屋」という屋号で旅籠を営んでおり、現在の建物は約160年前に建てられ、濃尾震災 にも耐えたとされている。中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に遡る貴重な建物である。
主屋は袖うだつを上げ、窓に縦格子を入れる。また、主屋の東側に離れ、南側に土蔵を配し、土蔵は大型の石を亀甲形に築いた基礎の上に建てられている。 |
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<梅田昭二家住宅>
主屋は、本家(梅田吉造家)に次いで古く、明治元年の建築とされる。木造つし二階建ての切妻造りで正面中央に入口を設け、向かって左側に鉄格子、右側に木格子をいれる。
王屋の南側には、濃尾震災 の翌年(明治25年)に建てられた離れがある。木造二階建て切妻造りの建物で、土蔵・門・座敷を複合する。その座敷の一部は南側に張り出し、西面と南面に腰高のガラス窓をいれ、欄干を廻らす。
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<安田家住宅> (若竹屋)
かつて安田家は旅籠屋を営み「若竹屋」と号した。
主屋は昭和5年(1930)の建築で、木造つし二階建ての切妻造り 。間ロ六間、奥行き五間半の規模で、東側に土間を設け、西側に八畳四室を田の字型に並べている。正面に庇をつけ、一・二階に格子をいれる。安田家住宅は比較的新しいが、軒の高さや表構えを周辺に揃え、中山道
鵜沼宿のまちなみを今に伝えている。 |
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<中山道を利用した主な姫君>
中山道は、将軍家や大名家へ嫁ぐ姫君が多く通行し、姫街道とも呼ばれた。
享保16年(1731) |
比宮(9代家重へ) |
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寛延2年(1749) |
五十宮(10代家治へ) |
鵜沼泊 |
文化元年(1804) |
楽宮(12代家慶へ) |
鵜沼泊 |
天保2年(1831) |
有君(13代家定へ) |
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嘉永2年(1849) |
寿明君(13代家定へ) |
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文久元年(1861) |
和宮(14代家茂へ) |
鵜沼昼休み |
<中山道鵜沼宿と芭蕉>
貞享2年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられている。その後、貞享5年(1688)7月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
汲溜の水泡たつや蝉の声
の句を読み、さらに同年8月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられている。
ふく志るも喰へは喰せよきく之酒
その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
おくられつ送りつ果ハ木曾の秋
と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれている。 |