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<朝鮮人街道(京街道)>
江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われている。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000qにもなるが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれている。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われた。 |
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<朝鮮通信使>
文禄元年(1592)豊臣秀吉の大陸出兵によって朝鮮と日本の国交は断絶したが、慶長12年(1607)徳川政権が対馬の宗氏の尽力を得て国交を回復し、以来文化8年(1811)まで12回にわたって使節団を迎えた。
一行は、三使(正使、副使、従事官)、上々官(通訳)、上判事、学士、上官から下官など、毎回五百人を超える多くの人々が、宗氏の案内で来日し、国際交流の役割を果たしてきた。
早朝宿泊地の守山を出発、野洲行畑で中山道と分岐する、いわゆる朝鮮人街道に入り、江頭、加茂を通り、小船木を経て八幡別院で昼食、やがて京街道から鍵之手、音羽、西之庄を経て鳥居本摺針峠の望湖堂の景色を楽しみ、美濃路、東海道を経て江戸へ向かった。
12回に及ぶ訪日の間、近江八幡では往路、復路ともに本願寺八幡別院(金台寺)で正使、副使など主だった人々が昼食をとり、他の随行員は京都街道筋の家々で食事をしたとの記録から、町中を上げての一大行事であったようです。
饗応料理の準備もさることながら、道の整備、並木の植樹、宿となる寺や家の修理、茶屋やトイレの設置、人や馬の手配など、受け入れにあたっての労苦は並大抵のことではなかったでしょう。
先駆けとしてまず国王から将軍への贈り物である馬・鷹が到着する・こうして徐々に緊張が高まってゆく中、いよいよ本隊がやってくる。前の休憩所の担当者からの見送りと、迎える側の役人、荷物や輿を運ぶ人たち。これらの人や馬が一挙に町になだれこむ様は、現在では想像を巡らすしかありません。 |
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<八幡山の宴>
朝鮮通信使とは、朝鮮国王が江戸幕府に派遣した使節のことで、将軍襲職などの祝いに慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回来日している。
慶長12年第一次として、我が国を訪れた朝鮮通信使は、元和3年(1617)の京都への来訪と、文化8年の対馬での2回を除き、実に10回に及び通信使の来訪を見ることができる。この間通信使の来訪は、彦根、野洲の間は朝鮮人街道(別名、下街道、唐人街道、京街道、佐和山街道、浜街道とも呼ばれている)を通り江戸まで行ったが、近江八幡を昼食の場として八幡山での宴のひと時を過ごした。
当時、近江八幡は「八幡」と呼ばれ天正13年(1585)羽柴秀次(後の豊臣秀次)が城下町として町を開いたとき、その掟書に「八幡山下町中」と記されている。このことはとりもなおさず八幡山は、近江八幡の昔日の呼び名でもあったことを物語っている。
天和2年(1682)8月8日、早朝守山を発出した朝鮮通信使の一行は、朝鮮人街道を次の宿泊地の彦根を目指して昼頃に八幡山に到着、一行約500名は、正使、副使、従事官の三使を金台寺に、他は街道沿いの寺院、大店にそれぞれ朝食を取り、また警護や使役等々、1000人余りの人々も、それぞれ近くの家々にて昼食、正に「八幡山の宴」の賑々しさを呈したものと思われる。
<朝鮮通信使饗応膳の復原>
三之膳 二之膳 本膳
客人からみて、上部の盛付台の継ぎ目が奥に、脚部の継ぎ目は盛付台で隠されるので手前側にきている。
<熨斗>(のし)
本膳が出される前に、まず第一番目に三方に「熨斗」を乗せて出てくる。「熨斗」とは「のしアワビ」のことで、アワビの肉を薄く剥ぎ引き伸ばし、紐のようにして乾かしたものです。これは永続の意味をもち、祝事にはなくてはならない物で、「のしをつける」「のしを添える」と現在でも使われている。
<二の膳>
1 蛸(たこ)
2 鮎鮨(あゆすし)
3 貝盛り(かいも)
4 ふくめ
5 小桶(こおけ:うるか)
6 汁(しる:すまし・鯛・青昆布) |
<三の膳>
1 羽盛り(はもり)
2 舟盛り(ふなもり)
3 辛螺(にし)
3 汁(ふくさ・いりこ)・いも・ごぼう・大根・しいたけ |
<五々三 本膳>
1 唐墨(からすみ)
2 香物(こうのもの)
3 和交(あえもの)
4 焼物(やきもの)
5 蒲鉾(かまぼこ)
6 汁(ふくさ・雁・ごぼう・大根・塩松茸・焼麩)
7 食(飯)
8 丸塩(まるじお)
9 金箸臺(きんはしだい) |
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