|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
中山道69次の中で江戸から42番目の宿場。中山道と言えば妻籠宿、特に木曽路(木曽11宿)の中では知れ渡っている。江戸時代の面影を多く残しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。妻籠宿本陣は、平成7年(1995)に復元された。この本陣には島崎氏が勤めており、島崎藤村の母の生家でもある。 |
|
|
|
|
|
妻籠宿は全国でも初めての集落保存に着手し、長野県の明治百年記念事業として、昭和43年(1968)から45年(1970)にかけて寺下地区を中心に26戸の解体復原工事を実施した。
これによって江戸時代の面影をそのまま残すことができた。妻籠宿は全国に注目されるに至り、昭和51年(1976)9月4日国の重要伝統的建造物保存地区に選定された(面積1,245.4ヘクタール)。現在この地区には、町の有形文化財に指定されている。 |
|
|
|
|
|
<人馬会所(問屋場))>
宿場には、公用の旅客に人馬を提供するのが第一の仕事でした。妻籠宿には本陣と脇本陣に人馬会所(じんばかいしょ)があり、半月交替で勤めた。
人馬会所には問屋、年寄帳付(としよりちょうづけ)、馬指(うまさし)、人足指(にんそくさし)などの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割り振りをした。人馬会所の道路は広く宿内で最も賑やかなところだった。
|
|
|
|
|
|
<熊谷家住宅>
この建物は、19世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物が取り壊され建て替えられたことから長屋の間取りの右半分と左半分がの残り、一軒の家として使用されたものである。昭和48年(1973)に町で買上げ、解体復原された。 |
|
|
|
|
|
<下嵯峨屋>
下嵯峨屋は、建造当初長屋であったものの一戸分を昭和43年(1968)に解体復原したものである。妻籠宿における庶民の住居を代表する片土間に並列二間取の形式をよくとどめている。 |
|
|
|
|
|
<上嵯峨屋>
この建造物は昭和44年(1969)の解体復原によって江戸中期(18世紀中期)の建物と推定される。建造当初の形式をよくとどめ庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる。 |
|
|
|
|
|
<本陣>
妻籠宿の本陣は、代々島崎氏が務めた。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から「ぬい」が、馬籠の正樹(「夜明け前」の主人公青山半蔵)のもとに嫁いだ。7人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となった。
その後、本陣は取り壊されたが、平成7年(1995)に江戸時代後期の間取図を元に忠実に復原されたのが現在の建物です。 |
|
|
|
|
|
<脇本陣>
脇本陣は、屋号を奥谷(おくや)といい、代々林氏がを勤めてきた。現在の建物は明治10年(1877)に総檜造りで建て替えられた。平成13年(2001)に国の重要文化財に指定された。現在は「脇本陣奥谷」として博物館になっており、脇本陣民俗資料や島崎藤村文学関係資料などを展示している。島崎藤村の初恋の人「おゆふ」さんの嫁ぎ先でもある。 |
|
|
|
|
|
高札場 |
|
|
|
|
|
厩(うまや) |
|
|
|
|
|
|
|
<桝形の跡>
江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされ整備され、宿場の出入口には必ず桝形が設けられた。宿場の桝形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものである。
この妻籠宿の桝形は、明治32年(1899)からの大平街道の改修工事により、その上部斜面を掘り削られているが、よく当時の姿を伝えている。 |
|
|
|
|
|
<口留番所跡>
江戸時代の初期、この辺りに口留(くちどめ)番所があって、中山道を行く人々を監視していた。従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された正保3年(1646)と推定される史料に、妻子(つまご):籠)御関所」と推定されていることから、少なくとも17世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。
なお妻籠には、下り谷その後一石栃に、木材を取り締まることを目的とした白木改番所が、近世を通じて設置されていた。 |
|
|
|
|
|
<石仏「寒山拾得」>
この石仏は、昭和59年(1984)の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な絵が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積み直されたもので、それが再び地震で崩れ、石仏が出現したわけで、まことに不思議なことである。
この石仏が日本石仏協会の目にとまり、寒山拾得(じっとく)を題材にした「箒と巻物を持った人物による双体像」は、国内唯一つの珍しい絵柄と分析された。彫ったのは、文政年間にこの像の隣りにある「水舟」を手掛けた光徳寺の中外和尚と推察される。
「寒山」は、唐代の禅僧豊干に師事し、天台山の近くに、「拾得」とともに住んだ寄行の僧で、伝説の部分も多いが、「寒山詩」や「禅宗の画材」として有名である。
石仏の「寒山」が手にする「巻物」は、智慧を意味する文殊菩薩の化身であり、隣の「拾得」が手にする箒は、行動を意味し普賢菩薩の化身と言われている。 |
|
|
|
|
|
<延命地蔵尊>
享保10年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。堂内には直径が2mほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化10年(1813)5月10日頃、河中(蘭(あららぎ)川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることに旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運び上げたというものである。
この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常に濡れているように見えるこよによる。毎年4月23、24日にお祭りが行われている。 |
|
|
|
|
|
<鯉岩>
この岩は、妻籠の北外れにあり、形が魚の鯉に似ていることから鯉岩と呼ばれ、中山道開設以来街道を旅する人々の目を楽しませている。伝説によると、昔はこの辺りで川でこの岩は土石流で流れてきたとの事です。
明治24年(1891)の濃尾大地震で山側に倒れ、現在の姿になった。文化2年刊の「木曽路名所図会」には元の姿で描かれている。 |