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東海道36番目の赤坂が宿場町と定められた頃、赤坂宿の棟数は360戸。ところが、宝永6年(1709)に大火に見舞われ、280戸が焼失してしまい、残ったのはわずか80戸余りになったといわれている。
その後、幕府の援助で復興なったものの、時代の変遷とともに、宿場としての営業を続けていくのは難しく、徐々にその灯は消えていったということです。
現在でも、唯一『旅籠』としての面影を残しているには、『大橋屋』のみ。宿場町として営んでいた時代は『伊右ェ門 鯉屋』と名付けられていた。
<赤坂宿>
徳川時代における赤坂宿は、東海道五十三次の一つにして、また三河一国の幕府領を支配する代官所(赤坂陣屋)の所在地であった。
宿には本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋等に至るまでその設備至らざるはなし。多数の飯盛女を抱えて繁栄を極む。
御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い
御油や赤坂吉田がなけりゃ 親の勘当うけやせぬ
御油宿の西端から西の藤川宿へ向かう。街道筋の記録です。最上段の画像は、赤坂宿のシンボル的存在の大橋屋の外見です。 |
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<関川神社の楠>
由来、沿革については不明だが、古老の説によると、木の根元からえぐられている部分は、慶長14年(1609)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で、約30戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。
この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり、推定樹齢は約800年であるといわれている。 |
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<本陣跡>
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。
赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派なものであった。 |
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<長福寺のヤマザクラ>
長福のヤマザクラは、推定樹齢約300年で、幹の回りは目通り約3.3mあり、町内で一番大きなサクラの古木です。
この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に勤めていた役人の手紙の中に、『長福寺の桜も満開になったでしょう、昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します。』と記されている。 |
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復元された高札場。街道筋に散見する往時を偲ばせる伝統的な建物・民家が見られる。 |
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<浄泉寺の蘇鉄>
この蘇鉄(ソテツ)は、広重の東海道五十三次の内、赤坂「旅舎招婦図」と題されたはたご風景の中に描かれていた「ソテツ」です。
明治20年頃道路拡張により当宿の旅籠(大橋屋)より当寺境内に移植された。(樹齢・推定270年、樹高・3m、幹周・4.6m) |
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広重が筆をとった「赤坂宿」は、この『鯉屋』がモデルになり、その広重の絵をみると、『赤坂宿』の庭には大きなそてつの木が描かれ、いかにも自然美に恵まれた町だったということを語りかけてくれる。 |
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街道筋の面影を感じさせてくれる尾崎屋。軒行灯を二階につるし、軒下の看板に「曲げ物製造卸問屋」と書かれている。店内に入るとめんぱなどの曲げ物や彫り物の面などが並べられていた。 |
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<旅館 大橋屋>
本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。享保18年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数400軒のうち、83軒が旅籠屋であった。
大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行23間ほどであった。入口の見世間・階段・二階の部屋が往時の様子を留める。
現在も現役の旅館である。女将の話では、今日は2名の宿泊があるとのこと。食事は宿泊者でお願いし(外食か弁当か)素泊まりだけ営業しているという返事であった。 |
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<正法寺のイヌマキ>
イヌマキは通称マキといい、常緑樹で雌雄は異株です。この木は雌木で、花は5月頃に開き、緑色の種子はおよそ球形で10月頃に熟す。花托は倒卵形で暗赤色に色づき、甘味があり食べられる。
樹齢は約500年、木の高さは約20mで、幹の回りは目通り約2.6mもあり、県下でも珍しく大きなものです。また、雄木は本堂左側にあり、樹齢、大きさともこの雌木とほぼ同じです。
<正法寺のウラクツバキ(有楽椿)>
ウラクツバキは、茶人織田有楽斎(織田信長の弟)が茶花として愛好したことからこの名が付いたといわれている。関東では『太郎冠者』とも呼ぶ。
この木の樹齢は約400年で、花は1月上旬から3月末まで咲き続ける。わずかに淡紫色を帯びた桃色で、白斑の入った花もある。形状は一重中輪です。 |
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<赤坂陣屋跡>(三河県役所跡)
陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが、元禄2年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園付近)に移された。
幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治2年(1869)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県五、明治5年に廃止となった。 |
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<杉森八幡社の楠>
杉森八幡社境内・拝殿向かって左側、前から2本がそれであり、根株が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。当社は大宝二壬寅年(702)持統上皇が東国巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領厨跡に大神宮・八幡社を勧請し、両宮とも神鏡を納められたと伝えられている。
社の発生から考察し、また調査したところ、この楠は推定樹齢約1000年と考えられる。目通り6m、高さ20m、根張りが楠の特徴をよくあらわしている。
<赤坂の舞台>
当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。
赤坂宿では、江戸時代には人形浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の愛好者に建築を呼びかけ、明治5年7月に舞台開きをしたと伝えられている。平成12年(2000)に改修復元した。 |