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江戸・日本橋から2里(8q)。歩行(かち)新宿、北品川宿、南品川宿、門前町で構成。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
家康・家光ゆかりの寺社、御殿山・海晏寺など花の名所もあり、旅人のみならず江戸や近辺からの遊客でも賑わい、北の吉原に対して、南国「美南見」(みなみ)とも呼ばれていた。
幕末には、諸事件(桜田門外の変、英国公使館襲撃事件他)の出撃基地、新選組の宿舎なお多くの歴史舞台にもなった宿場です。
宿内人口 |
6890人 |
宿内総家数 |
1561軒 |
本陣 |
1軒 |
脇本陣 |
3軒 |
旅籠屋 |
111軒 |
貫目改所 |
1軒 |
宝井其角の俳句「品川も連れにめずらし雁の声」が江戸名所図会にある。其角に「雁の腹見送る空や船の上」の句もあり、品川は江戸旅立ちの見送りの場でもあった。 |
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<問答河岸由来記>上左画像
寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連つて輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う 厚遇思う可し 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る
将軍乗船に臨んで禅師に参聞して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変し河海遠し 然れ共市人傅えて問答河岸と称す 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永亡芳を傅えんとす 亦可しからすや
(家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わる。現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれている。)
<土蔵相模跡>上右画像
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と 呼ばれていた。文久2年(1862)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄端らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行した。幕末の歴史の舞台となったところです。 |
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<大横町>上左画像
東海道から御殿山への横町に付けられた名称で、他に比べて広いことから付けられたとも言われている。
<台場横町>上右画像
嘉永6年(1853)、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航した後、幕府は江戸防備のために、江川太郎左衛門の指揮で、品川沖に品川台場の築造に着手した。当初計画は11基でしたが、完成したのは5基で、他に陸続きの御殿山下台場(現在の品川区台場小学校)を完成させた。この御殿山下台場へ下っていく横町を台場横町と呼んでいる。 |
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<石垣石>
この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたものです。かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていた。石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房州石)であり、幕末から明治時代の加工と考えられる。
品川宿の護岸は、もともと伊豆半島産も安山岩(伊豆石)で構築されていたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになる。房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に石井石に取って代わっていった。海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。 |
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<善福寺石像念仏講供養塔>
本供養塔は笠塔姿型の塔で、万治元年(1658)に時宗寺院のこの寺に建立されたものである。塔身の正面に「波阿弥陀佛」の六字名号と「念仏講為逆修菩提也 善福寺住持想阿 敬白」の銘文、両側面と背面に主だった講員16名の人名を刻んでいることから、当時の住職であった想阿(そうあ)の指導のもとに、念仏講の人々が死後の往生菩提を生前に祈り、読経や供養などの善行を積むことを意図して造立したものであることがわかる。
都内外の数ある供養塔の中で、万治頃に造立された念仏講供養塔はその数も少なく、江戸初期の民間信仰の資料として貴重なものである。(品川区指定有形文化財) |
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<善福寺の鏝絵>
善福寺は時宗の寺院で鎌倉時代に創建された古刹である。その本堂の上部軒下に、伊豆長八による鏝絵(こてえ:漆喰彫刻)が施されている。伊豆長八は、江戸時代末期の左官職人で名工と言われ、鏝絵の名手であった。 |
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<品川浦の船だまり>
ここはかつて、「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていた。当時の面影を残す船溜まりとして残されているが、現在は釣船や屋形船の係留地になっている。背後には高層建築が建ち並び新旧の対比があまりにも著しい。 |
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<溜屋横町>
江戸時代の北品川宿三丁目と歩行新宿(かちしんじゅく)一丁目の境の横町で、品川宿通りから目黒川に下り利田新地(かがたしんち)への島海橋が架けられていた。文政期(1820年頃)に幕府編纂の地誌「新編武蔵国風土記稿」には横町名の記載はあるが、その由来についての記載はない。
品川宿内には、たくさんの横町があった。台場横町・溜屋横町・竹屋横町・陣屋横町・竹屋横町・清水横町・大横町・黒門横町・虚空蔵横町等といった名前で、今でも地域の人たちに親しまれている。 |
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履物屋・丸屋。履物屋という名前にぴったりの店構え。 |
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<一心寺>
安政2年(1854)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起により江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄、安泰の願えとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に倣って建立されたと伝えられている。
当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺號を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いている。
昭和61年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く また、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称されており、
内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人等が祀られている。 |
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竹屋横町(上右画像)、名前の由来は伝わっていない。 |
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<本陣跡>
江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣があったが、中期以降は北品川宿1つだけになり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や公家・門跡などの宿泊・休憩所として大いににぎわったところである。明治5年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。 |
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<品川橋の今昔>
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変賑わった。また、海が近く漁業も盛んなところであった。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれる。
品川橋は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には境橋と呼ばれていた。また別に行合橋・中の橋とも呼ばれていたようだ。最初は木の橋だったが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきた。
品川橋がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っている。
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<南品川宿河岸>
江戸時代、品川領の村々では、年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御蔵に送っていた。この南品川宿河岸のことを俗に百足河岸と呼んでいた。百足河岸と呼んだのは、南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいう。 |
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<石垣>
品川宿の宿場通りから海岸の方へ行く横町は全て坂になっていた。昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていたが、波浪によってこの石垣が壊された。現在は民家の土台や公園の石垣など別の役割を担っている。 |
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<六地蔵「品川寺」>
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中6か所に地蔵菩薩をそれぞれ1体ずつ造立したものです。
各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかる。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊され、5体が残っている。六地蔵のうち、霊厳寺の地蔵は第5番目で、享保2年(1717)に造立された。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、4本の指が密着した形になっている。像高は、273p、かつては鍍金が施されており、所々に金箔が残っている。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定された。(東京都指定有形文化財) |
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<江戸幕府御用宿 釜屋跡>
南品川 には旅人 が休息をする「建場茶屋 」が、数多くあった。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸
に入る大名が、旅装束 から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わった。
中でも品川寺門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなった。
慶応3年(1867)には「幕府御用宿 」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用している。同年10月21日、新選組副長・土方歳三 と副長助勤・井上源三郎が、新入隊士や故郷の支援者達、計31名で休息した記録が残されている。また、慶応4年正月12日〜23日、鳥羽伏見の戦いに敗れて、江戸に戻った新選組の「品川屯所」となっていた。 |
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<海雲寺の千躰荒神堂>(せんたいこうじんどう)
海雲寺の鎮守として千躰三宝大荒神王を祀る。千躰荒神像は、インドの毘首羯摩(びしゅかつま)作と伝えられる。古くは肥後国天草郡荒神ヶ原にあり、鍋島直澄(なべしまなおずみ)が島原の乱出陣時に戦勝祈願したところ、千躰の神兵に助太刀され大きな武勲を得たという。江戸高輪二本榎(現・港区)の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座させたが、明和7年(1770)3月当寺に勧請された。
移転は島原の乱時にキリシタンによって社を壊されたためとする話も伝わる。お堂に掛かる扁額は、文久元年(1861)のガラス製雌雄二鶏図(しゆうにけいず)、昭和10年(1935)浪曲家・広沢虎造夫妻奉納の文字額など全27面がある(品川区有形民俗文化財)。 |
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<浜川橋>
立会川(たちあいがわ)が海に注ぐ、この辺りの地名の浜川から名付けられた。この橋はまたの名を「涙橋」とも言う。この橋が架けられたのは徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われる。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えたものです。
<涙橋の由来>
慶安4年(1651)品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられて護送されてきたが、親族らが密かに見送りに来て、この橋でともに涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになった。 |
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<鈴ヶ森刑場>
鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安4年(1651)に開設されたお仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄8年(1695)実施の検地では間口40間、奥行き9間であったとされる。
東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていない。大経寺はお仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は元禄11年(1698)の建立とされる。
この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされる。江戸の刑制史上重要遺跡です。隣接する大経寺の境内にある。(東京都指定文化財)
<火炙台>(2段上左画像)
八百屋お七を初め火炙(ひあぶり)の処刑者は、この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪を積み、縛り付けて処刑されたのである。
<礫台>(2段上右画像)
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛り付け刺殺したのである。 |