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品川宿(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光街道・奥州街道)は、江戸四宿といわれる。千住宿は、日光道中と水戸・佐倉道の初宿になる。千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒があった。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。
<千住宿歴史プチテラス>
千住宿歴史プチテラスの建物は、千住四丁目の元地漉き(じすき)紙問屋横山家にあった内蔵を平成5年に解体移築した土蔵です。蔵は間口3間半×奥行2間半の木骨土蔵造りです。芭蕉句碑 「鮎の子のしら魚送る別かな」
<やっちや場跡>
江戸時代には、旧日光街道にそって青果の他 穀物 川魚の問屋が軒を連ねていた。この両側に並ぶ一軒一軒の問屋それぞれが市場で、店先でセリが行われていた。そのセリのかけ声の「ヤッチャ ヤッチャ」から、やっちゃ場の名が起こったといわれている。千住のやっちゃ場は戦国時代(永禄・天正)の頃からあったと言われているが、やはり千住大橋が架けられてからが本格的な発展をみた。それも 初めから問屋街が出来たのではなく、道端の朝市程度から だんだん整ってきたものと思われる。 |
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<大名行列>
千住は日光街道の始点として重要な宿駅だった。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最もよく整備された幹線道路だった。そして、奥州・関東の諸大名による参勤交代のための大名行列が往来する主要な道でもあった。
昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道は舗装され当時の面影はほとんど無くなってしまった。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも偲ばれるよう、大名行列を再現してみた。 |
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<細道プチテラス・松尾芭蕉の像」
平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり、当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。
この先の旧道は元やっちゃ場の地であり、明治以降は正岡子規、高浜虚子も訪れていて、特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号=菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。
芭蕉像に到る足元の敷石はやっちゃ場のセリ場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷石があるかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻き立てます。
人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅することで何かを感じるものがあるかも知れません。 千住大賑会 手漉和紙
<大名行列>
千住は日光街道の始点として重要な宿駅だった。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最もよく整備された幹線道路だった。そして、奥州・関東の諸大名による参勤交代のための大名行列が往来する主要な道でもあった。
昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道は舗装され当時の面影はほとんど無くなってしまった。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも偲ばれるよう、大名行列を再現してみた。 |
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このあたりは「やっちゃば」とよぶ江戸時代から続く青果物問屋街で関連する商家が建ち並んでいました。今でも当時の屋号が伝わっている。
取引は掛売りで行われており、売掛台帳を大切にしていた。そのため、戦災で焼失する以前は敷地の奥に蔵がたくさん建っていた。
<鮒平と千住>
川魚問屋鮒平は初代平治郎により明治初頭にここ千住に創業された。それ以前当家は江戸時代中期より街道沿いで茶屋吉見屋を生業としていたと伝え聞く。現在は鰻を主に取り扱っているが平次郎創業時は川魚の代表格であった鮒も主力に商っていたとの事。メモでその鮒と平次郎の頭文字をとって屋号を鮒平としたことは容易に想像できる。現在千住の名物となっている鮒のすずめ焼きを調理し新橋の老舗佃煮店に卸していた時代もあったと聞く。
都内には川魚関係の屋号に鮒を用いている場合が多い。特にここ千住はその地理的特性(すなわち東京湾奥や関東平野各地からの交通の要所であった)から川魚の集積地であった為街道沿いには鮒を屋号に用いる店舗が散在している。隣の橋戸町は鮒金(佃煮)、日光街道を北に向うと掃部宿(仲町)には鮒興(川魚問屋)があり本宿(二丁目)には鮒秋(佃煮)が現存している。そのほか古い町並図にはここ香春町には鮒甚、仲町には鮒治の屋号を確認する事ができる。 平成十九年十月吉日 鮒平
<大喜 新大坂屋(元青物問屋)>
当主為成善太郎は俳諧を良くし俳号を為成菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。
今でも千住の俳句会では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
寄贈 千住金久漬物株式会社 |
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街道の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和16年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。
五街道の奥州街道・日光道中の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べている。まさに専門店街である。日本の専門店街がここから始まった。と言っても良いだろう。
旧道を楽しくしょうかい(会) 千住大賑会 |