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江戸時代、五街道の起点として日本橋を定めた。五街道は、東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道だが、日本橋で北と南に分かれて進んだ東海道と中山道は、滋賀県草津市で再び合流して京都・三条大橋へと向かう。三条大橋まで約126里、約492qあり、これを12日から15日で歩いた。
五街道は幕府の道中奉行が直轄支配していた。街道には宿駅や置かれ、馬や人足で人や物を運ぶ伝馬制が整備された。宿駅や伝馬は基本的に幕府公用のためのものだったが、町人らの利用も増え、日本全国をめぐる人や物の交流も活発になった。
日本橋は徳川家康が江戸に幕府を開いた時に架けられ、街道の一里塚として現在に至るまで全国道路の基点となっている。現在、道路元標が設置され、上は首都高速道路が走る。橋のたもとには日本橋魚市場発祥の跡がある。
<日本橋>
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていた。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重(歌川広重)の錦絵でも知られている。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成した。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟(きりん)は東京市の繁栄を、獅子は守護を表している。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更された。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定された。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管している。
日本橋は、明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。また、土木家、建築家、彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、ルネサンス式による橋架本体と和漢折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており意匠的完成度も高い。建設省国道に係わる物件で初めての重要文化財指定を受けた。 |
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<日本国道路元標>
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められた。現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜の揮毫によるものです。昭和47年(1972)、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存された。その据えられたいた跡には、佐藤栄作元首相の揮毫による「日本国道路元標」が埋標された。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、平成11年(1999)に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されている。 |
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