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ここは中山道の本街道であり板橋宿の1つ手前として上り、下りの旅人の往来が激しく賑わっていたという。広重の絵にも描かれている。
現在、庚申の日になると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月4の日)と同様に多くの参拝者があるそうです。庚申塚の銘碑には「庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三戸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三戸という虫が、60日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし命が縮められるのを防ぐというものである。‥‥」(東京都豊島区教育委員会)と記されている。
こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1830〜43)に刊行された「江戸名所図絵」では、中山道板橋宿に入る前の立場(たてば、休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人と、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人があとを絶たない。
<江戸の名所>
巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所だった。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図絵」にも描かれている。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(岩寺)の縁日(毎月4の日)と同様に多くの参拝者がある。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしている。
「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葦簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば明暦3年(1657)に造立されたものということがわかる。これより以前、文亀2年(1502)に造立されたといわれる石碑があったが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えている。
また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれているが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという暦史的事実によるものです。
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