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この道筋は、江戸時代の東海道です。丸子宿は文治5年(1189)、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宋長も「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記している。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて二十番目の宿場町に定められた。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していた。(助郷制度)
「うめ若菜、丸子の宿のとろろ汁」と松尾芭蕉が詠み、また十返舎一九の東海道中膝栗毛に鞠子の名物としてとろろ汁の話が出てくるように、この鞠子宿(丸子宿)の名物は「とろろ汁」だった。
丸子にある旧東海道沿いの茅葺き屋根の丁子屋は、広重の浮世絵にでてくる茶屋の雰囲気をよく伝える建物で、とろろ汁がお勧めです。店内には徳川慶喜の大政奉還を知らせる高札が掲げられていた。 |
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左側は、当時(江戸時代)のとろろ汁。右側は、現在のとろろ汁。 |
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上画像の辺りは東の見付を通り丸子宿に入ってきたところです。見付は、宿場の出入り口にあり、往来を監視する機能をもっていた。
現在、宿通りを呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていないが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿の様子を思い起こすことができる。
天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並東西七町、惣家数二一一軒、そのうち本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二四軒、人口七九五人、と記録されている。
丸子宿には、お七里屋(しちりや)と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もあった。 |
<江戸時代の丸子宿> 駿河国有度郡丸子宿 駿河町奉行支配所
丸子宿の成立 |
慶長6年(1601)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される |
位置 |
江戸へ46里4町40間(約184q)
府中へ10里16町 岡部へ2里 |
宿内家並 |
東西長さ350間(630m) |
宿内人口 |
総数795人 (男366人、女429人) |
宿内総家数 |
211軒 |
宿泊施設 |
本陣1軒 建坪280坪
脇本陣2軒
旅旅籠 大 2軒 中 16軒 小 6軒 |
問屋場 |
一ヶ所 人足100人 馬100疋 |
高札場 |
一ヶ所 宿西入口に立つ |
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