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<川庄屋と年行事>
元禄9年(1696)、代官野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになった。その中心的な役割を担ったのが、川庄屋と年行事です。
川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していた。その主たる任務は川越賃銭の統制だったが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていたことから、当初の二人枠が次第に増員され、貞和年間(1801〜1804)には、四人が任命されている。
年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられたが、その数は9人〜11人、あるいはそれ以上と一定していない。川会所に交替で勤め、川越賃銭」の取り立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行った。また、川越賃銭を決めるための下検分を行い、川の留め明けについても決定的な意見を川庄屋に報告していたとされている。 |
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<札場>
川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されている。一日の川越が終了するとそれぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配した。 |
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<番宿>
川越し人足がふだん詰めていた溜まり場ですが川越制度制定当初から番宿がしたかどうかは不明です。川越し人足は十組に分けられ、各組が一つの番宿に詰めた。
川越しは各組が輪番制であたったが、当番でない組の人足もそれぞれの番宿で待機していた。
<川越人足>
川越人足は、外見上の粗野や風貌と、仕事内容により、ややもすると街道に出没する、いわゆる雲助と同一視されることもあるが、事実は、長年にわたる厳しい修業を経て、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団でした。
大井川は現在と違い、当時は水量が豊富なこともあって、とても素人に勤まる仕事ではなかった。川越人足になるには、12、3歳の頃から見習いとして、雑用を行い、15歳頃から「水入」となってさらに訓練をつみ、毎年末に川会所に申し出て、適当と認められると、正月になって川庄屋が本人を川会所に呼び出して川越人足になることを認められた。 |
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<仲間の宿>
主に年とった川越し人足たちの集まった宿です。ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組どうしの親睦の場として使用されていたといわれている。 |
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<立合宿>
立合人が詰めたり、川越人足の頭が必要に応じて相談場所として利用したところです。立合人は、川越しを待っている旅人たちを番宿まで案内することがその役目で、ふつう番宿から越場にいる川越人足のところまでは「陸取り」(おかどり)が案内したが、ときには立合人が越場まで連れていった。立合人は、川会所にも詰めていたといわれている。(現在・立合宿跡がある) |
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<川会所>
元禄9年(1696)に川越制度が改定されている。川役人が川越業務を行ってきたところです。現存する建物は、安政3年(1856)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和45年(1970)に建立当初の位置に近い現在地に復元保存された。
なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられているが、現存はしていない。 |
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<川札>
川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたという。公文書にも「油札」と記したものが多くある。
川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受けとると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけた。
川札は、美濃紙に十二行に裁ってつくられている。その上方に川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書されていた。全体には油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより状に撚ってあった。柿渋を塗るのは、水に濡れても差し支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。
川札がいつごろから使われ始めたか不明だが、元禄4年(1691)、ドイツ人で長崎オランダ商館付き医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記「江戸参府旅行日記」の中に、既に「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されているので、「川越制度」が確立される元禄9年以前から利用されていたと思われる。
<台札>
台札は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければならなかった。価格は、川札の2倍に相当した。 |
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せぎ跡(左)と芭蕉の句碑(右) 『馬方はしらじ時雨の大井川』
<川越しの時刻>
明け六ッ(午前6時頃)から暮六ッ(午後6時頃)までで、季節により多少のずれがあった。しかし、公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立が許されたが、よほどのことでない限り、暮六ッ以後の川越しは許されなかった。
開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始された。旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知った。鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加はねの内より支払っていた。
<川留めと川明け>
大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日変化するが、ひとたび大雨にあって水深五寸(約1.4m)以上に増水すれば大井川の川越しは禁止される。これが「川留め」です。
川留めは4〜6月頃に集中し、2.3日から1週間程ですが、慶応4年(1866)に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっている。
そして、「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原へ殺到し、またこの4〜6月という時期は、参勤交代とも重なり、混乱に拍車をかけた。このような日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝:とりかち)で、川越人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し:あいたいごし)越立てをした。これは、大通行の時期だけ認めていた。 |
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<島田大堤>
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流された。その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化している。恐らくこの頃(正保元年・1644)までには完全な大堤が完成していたことと思われる。
これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えている。大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ3150間(5.733m)と記録されている。
大井川川越遺跡町並は、国史跡に指定されている。説明は同遺跡町並の解説文より引用する。 |