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中山道大井宿は、江戸から約87里(344q)46番目の宿場で、京都へは47里余(188q)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ヶ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。
宿は東から横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という5町に分かれ、東の高札場から西に大井橋まで6庁半(710m)あった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる枡形によって区切られていた。大井宿ではこの直角が6ヵ所あって、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。
宿内には、本陣や脇本陣・問屋のほか旅籠屋・茶屋・商売屋など、天保14年(1843)の記録では家数110戸(466人)が軒を並べていた。本陣、脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参拝費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般旅人ばかりでなく武士も利用したと思われる。草履や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒あった。 |
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<大井宿本陣跡> (岐阜県史跡)
本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅籠屋とは大きく違っていた。本陣は各街道のの宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがあった。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊した。
大井宿本陣は、残念ながら昭和22年(1947)に母屋部分は火災で焼失してしまったが、幸いにも表門周辺は焼けのこり、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができる。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりだが、屋根は反りをもたせた瓦葺きで破風板や小屋組の細工や彫刻も叮嚀に仕上げられている。門の傍らに立つ松は樹齢300年を超すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。(1,2段目画像は大井宿本陣跡) |
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大井宿の枡形 |
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<大井村庄屋古山家>
古山家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売を営業としていた。そして享保年間から幕末まで約150年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。
屋敷は間口10間半(約19m)・奥行35間(約63m)・8畳の部屋など合計8室、それに土蔵をもつ広大な建物があった。
今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはじめ、はね式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある10畳2間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。 |
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<大井宿下問屋場跡>
大井宿問屋場は本町(上問屋)とここ(下問屋)の2ヵ所あった。問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。
宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足50名と馬50頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。(大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡内7か村) |
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高札場は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。
高札場は村のうち人通りの多い目に付きやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまり頻雑であったため8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。
そして、慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
大井宿の高札場はこの坂(五妙坂)の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大形のものだった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)
キリシタン礼 |
キリスト教を禁止する。不審な者を見付け申し出た者には褒美を与える。 |
毒薬札 |
毒薬やにせ薬やにせ金を売買を禁止する。職人が申し合わせの手間賃を値上げしたりしないこと。 |
人馬賃銭札 |
この規定を元賃銭といい、以後人馬賃銭割増の基準になった。 |
徒党札 |
徒党をくんだり強訴したり、言い合わせて村から逃げ出ることを禁ず。 |
割増賃銭札 |
人馬銭を天保14年(1943)から5年間、元賃銭の4割5分増しとする。 |
火付札 |
火付人を見付けたらすぐ申し出よ。また火事場では不審な行動をしないこと。 |
人馬貫目札 |
荷物は馬1駄40貫目(150s)人足は5貫目(18.75s)とし、宿人馬で不足するときは助郷村の人馬を集め、たとえ風雨の日でも遅れないように送り届けよ。 |
親子兄弟札 |
親子兄弟夫婦親類の者は、常に親しくして家業に励み、けんか口論博奕などをしてはならない。 |
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五妙坂 |
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大井宿の西側を流れる阿木川に架かる大井橋は、長さ23間(41m)、幅2間(3.6m)の欄干付きの木橋であった。この橋ができる天保年間以前は阿木川の真ん中に石の小島を造り、そこに両岸から橋をかけて川を渡っていたので中島橋ともいった。
大井橋は当時、阿木川に架かる唯一つの橋で、参勤交代の大名や多くの旅人が渡った。その頃の大井橋は木橋だったため阿木川の大水でたびたび流され、大正12年(1923)に永久橋に架け替えられた。
心ある 人に見せばや大いなる 花無山の 春の景色を
西行 |
平安の歌人西行法師は旅のみちすがら恵那の地に立寄り庵を結んでその風光を愛で暮らしたと伝えられる。
この橋のかけかえにあたり、親柱に法師の碑の姿をうつし、先人の優れた文化の香をしのぶよすがとするものである。 |
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明治天皇が明治13年(1880)6月28日にここ行在所(当時は伊藤家)にお泊まりになられた。現在でも、お泊まりになられた部屋、風呂場、便所は当時のまま残っている。このように現存している所は数少ない。(現岩井家) |
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宿場は旅人が宿泊するだけの場所ではなく、街道を往来する諸荷物の集積、中継という重要な役割も担っていた。 |