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<藤川宿>
藤川宿は江戸時代の東海道の宿場の内、品川宿から数えて37番目の宿場町であり、伝馬朱印状が慶長6年(1601)に発給された。そのため、本陣・脇本陣・問屋場などが置かれ、東海道の交通を担った。
東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入るが、往時を伝える史跡が残っており、宿場の西には約1qの松並木がある。
京へ 46里27丁 |
西隣 岡崎宿へ 1里半 |
江戸へ 78里29丁 |
東隣 赤坂宿へ 2里9丁 |
本陣1、脇本陣1、旅籠36軒。宿人口1,213人、家数302軒。(天保14年(1843)「宿村大概帳」の記録)
藤川宿の東棒鼻から西棒鼻を経て松並木までの街道を西へ向かう。 |
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<東棒鼻>
「棒鼻」(ぼうばな:棒端とも書く)とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。
藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の気運が盛り上がった平成元年(1989)である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである。
絵の中には、八朔(8月1日)の御馬進献(おんましんけん)の行列がちょうど藤川宿の棒鼻にさしかかったところで、辺りに境界を示す榜示杭(ぼうじくい)、道の両端に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣を描いている。(地元に保存されている街道往還図には宿囲石垣とある。)
最近、明治20年(1887)ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。
現在、藤川宿と言えば、「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。 |
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<高札場>
高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、民衆に周知させるための場所として設置されていた。宿場にも設置され、各宿間の距離を測定する基点ともされていた。
代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられる。藤川宿の高札は6枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されている。
その内容は、
@「藤川よりの駄賃並人足賃」
A「駄賃並人足荷物次第」
B「親子兄弟夫婦みな親しく」
C「切支丹禁制」
D「毒薬にせ薬種売買の事禁制」
E「火付け用心」
これらの文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じりの文や仮名文が用いられた。多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字の隅入れにも許可が必要だった。そのため、幕府や藩により「高札番」という役職が設けられ、厳しく管理を行っていた。
藤川宿の高札場は、問屋場(といやば)の東に設置されていたが、本陣跡広場の整備に伴い、ここに復元された。
<商家>
問屋場跡から家数にして5軒ほどの先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや旅人の姿を思い出させる味わいのある建物です。 |
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<称名寺>
「称名寺」は、浄土宗西山深草派(本山ー京都・誓願寺)の寺院である。正式の名称は、山号を「巌松山」、寺号を「柳田院称名時」と称する。本尊は阿弥陀如来坐像である。 |
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<脇本陣跡>
「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、その家老や奉行の止宿にあてられたのである。
「脇本陣」を営むことができたのは。本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜大夫」(おおにしきたゆう)で、「橘屋」と呼ばれていた。入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。現存する門は、関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西喜大夫のもので、一部修理も施されているが、昔日の名残をよく留めている。敷地は、現在の敷地の4倍、約130坪(約450u)程あった。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。
明治になって宿場の制度が廃止となり、その後、藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和53年(1978)10月に岡崎市の文化財に指定された。 |
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<本陣跡>
宿場には様々な施設があった。中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋などの休泊施設と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場であった。本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅する幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊した。
藤川宿には当初2軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たしていた。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものだった。そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返した。
本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていた。本陣の間取図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていた。井戸は二カ所あり、中庭に面した座敷があった。北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままである。本陣の規模としては大きなものではなかったが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていた。
明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を終えた。その際に本陣を営んでいたのは森川家であった。平成21年(2009)、その子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成26年(2014)に藤川宿本陣跡広場として整備された。
また、西側にある脇本陣跡には石垣や享保4年(1719)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されている。現在は藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関わる資料が展示されている。 |
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<西棒鼻>
「棒鼻」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。
藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。榜示杭(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。
また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で
「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」
と書いてある。「藤川宿の棒鼻を見渡すと。杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうでたこを売っており、たこのあしがぶらさがっている。」
この狂歌の中で榜示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶら下がって咲いている様子とにかけていておもしろい。
〇歌川豊広:江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。1774〜1829。 |
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<十王堂>
「十王堂」は、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは冥土(死者のたましいの行くところ)にいて、亡者(死んだ人)の罪を裁く十人の判官えおいう。
「秦広王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、太山王、都市王、五堂転輪王」の総称である。
藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が坐る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。
また地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。
<芭蕉句碑>
「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石を刻んで建てたものである。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた」
碑の裏に「寛政五歳次癸丑冬十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建」とあり、寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されている。
藤川宿では、かつて、むらさき麦と藤の花が美しく咲き乱れ、この美しさは道中記や古歌に多く詠まれてきた。平成6年(1994)に、藤川では、この幻のむらさき麦の栽培に成功し、春になると美しい穂を見ることができるようになった。 |
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<松並木>
天保14年(1843)には、34間の長さが続いていたと伝えられる藤川の松並木。昭和38年(1963)に岡崎市指定の天然記念物になった際には、幹囲2mのクロマツ90本が町の西はずれに約1qに渡って東海道の左右に立ち並んでいたという。
<東海道と藤川宿>
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために、「伝馬」36疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除した。これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始された。
中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定される。東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることが出来なほどの状態であったという。そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郡市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる加宿措置がとられたが、藤川宿の負担は重いものだった。 |