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<川坂屋>
大阪の陣(慶長19年の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重吉は長松院で手当てを受け、その後日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたと伝えらている。
現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年「日坂宿大火」後に再建されたものです。宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。
精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。また、「川坂屋」には脇本陣などという肩書きの着いた資料は見られないが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせる。
旅籠屋としては本陣と同じ明治初期に廃業したようだが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供したと思われる。 |
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<高札場>
幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、しの掲げられた場所を高札場という。高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていた。
高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き換えがあった。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原した。
高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によった。
<高札小史>
◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。
◎慶応四年(明治元年・1868)大政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚(五傍の掲示)を掲げた。
◎明治六年(1873)高札が法令公布の方式として適さないとの見地から撤去された。
<切支丹高札>
定
一、 切支丹宗門ハ累年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御褒美として
○(ば)てれんの訴人 |
銀五百枚 |
いるまんの訴人 |
銀三百枚 |
立帰り者の訴人 |
同 断 |
同宿并宗門の訴人 |
銀百枚 |
右之通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品に寄、銀五百枚下さるへし 、隠し置他所よりあらわるゝに於ゐてハ、某所の名主并五人組まで、一類共に罪科おこ なわるへきもの也、
正徳元年五月日 奉行 |
注:ばてれん(司祭)、いるまん(宣教師) |
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<下木戸跡>(しもきど)
江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入口には木戸が設けられていた。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていた。
古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられている。
また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしていたという説もある。
<秋葉常夜燈>
日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようだ。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくった。
秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などの人目につきやすい場所に建てられた。
日坂宿には天保10年(1839)に建立されたこの常夜燈(相伝寺境内)の他、本陣入口と古宮公会堂脇の計三基が遺っている。
秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。 |
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<萬屋>
江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建された。再建時期についての明確な史料はないが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙辰正月・・・」から考えて、安政年間(1854〜1859)のしかも早い時期かと思わる。
同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠だった。
一階の裏手に抜ける土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子が二階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的あることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られた。
尚、文久2年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されている。
間口 四間半
畳 三十三畳
板鋪 六畳
奥行 七間半
惣畳数〆三十九畳
惣坪数〆三十三坪七部五厘
旅籠屋 嘉七 |
今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしなかったが、調査結果は図の様になり、階段位置が反対であったり、二階が四間あったと思われる。文久2年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部門のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったとも思われる。 |
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<藤文> 日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸
商家で屋号は藤文。
伊藤文七は(号は文陰)翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めた。
維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他27ヶ村の副戸長に任ぜらた。
その間、幕府の長州征討に50両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として200両を寄付している。
明治4年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられた。日本最初の郵便局の一つと云われている。
その孫、伊藤文一郎氏は明治37年(1904)から39年(1906)、大正6年(1917)から8年(1919)、昭和3年(1928)と3期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力した。
明治9年(1876)11月には昭憲皇太后、翌10年(1877)1月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされた。
この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された倉は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。
この土地家屋は平成10年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈された。
文久2年(1862)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれていた。 |
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<脇本陣「黒田屋」跡>
日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めた。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。黒田家の拵えは文久2年(1862)の宿内軒並取調書上帳に
間口 八間
奥行 十五間
畳百一畳
板鋪 十五畳
惣坪数〆百二十坪 |
と記されている。
また、明治天皇が街道巡幸の際、明治2年3月21日と明治11年11月2日の2回にわたりここ脇本陣で小休止された。
<旅籠「池田屋」>
旅籠「池田屋」は、割烹旅館「末広亭」として営業中である。当時の造りでなないようだが、往時を偲ばせる雰囲気を感じさせてくれる。 |
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<本陣跡>
江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿のあてた宿駅の旅籠屋を本陣という。日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいた。本陣の敷地はおよそ350坪・建坪220坪、門構・玄関付の建物であった。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年(1870)に店を閉じた。
その後の学制頒布に伴い、明治12年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されたが現存しない。 |
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<問屋場跡>
宿場では、幕府などの貨客を宿場から次の宿場へと継ぎ立てることになっており、そのための人馬の設置が義務づけられていた。
宿駅でこの業務を取扱職務を問屋、その役所を問屋場という。問屋は宿内で最も大切な役職だった、
日坂宿の問屋場はかってこの場所にあり、「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳附五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人であった。問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わったとのことです。当時の建物、その他の遺物は現存しない。 |
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日坂宿は、東海道五十三次品川宿から数えて二十五番の宿にあたる。江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていた。
「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延喜3年(1310)の「夫木和歌抄」といわれている。慶長6年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になった。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきた。
天保14年(1843)の記録によれば、家数168件、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒があった。大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではあったが、かなりの賑わいであったと思われる。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700m)。町並みの形態は現在もあまり変わっていない。 |