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奈良井宿は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十九宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、その範囲は中山道沿いに南北約1q、東西約200mである。南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配されていた。街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町の本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。 |
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奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越しにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。 |
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建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成している。 |
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<鎧庇(よろいひさし)と猿頭(さるがしら)>
鳥居峠のふもとにひっそりとたたずむ奈良井宿。奈良井千軒と云われた昔をしのんで訪ねるとき、人々は町並みの中に格調高い宿場文化の名残を見い出す。出梁づくりの両側を押さえる「袖うだつ」「板屋根」「板壁」京都の町家づくりの影響を受けた京風の「格子」ともうひとつ「鎧庇」。板を重ねて波型にそらせた鎧庇は奈良井宿だけのものである。
この庇、広い板を横に4〜5通り並べてその上に板を押さえる桟木(さんぎ)が並ぶ。この桟木を「猿頭」という。連なった何匹かのサルが百数十年の風雪に耐えていまにも動き出すかと思われる格調高い造形の美。その庇をつるす金具、鉄板を真赤に焼いてねじ曲げられた曲線の美しさ。文化文政の頃の工匠の枝、野鍛冶達の優れた技術は敬服に値する。
猿頭の下場から打ち上げてある板止めクギは野鍛冶が一本一本たたいた四角なクギによって止められてある。鎧庇のつくりもつり金具の付け根を簡単に止めてあって盗賊がしのび込もうと庇に登れば庇もろとも下に落ちる仕組みに作られているという。江戸時代末期の文化文政の頃の人々の生活の知恵であろう。この庇と猿頭は文化財としても大変貴重である。(説明文より) |
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鍵手(鍵の手)は、枡形と同じで、街道の屈曲部分である。先方を見通せないようになっている。 |
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高札場は、江戸時代、幕府が定めた法律などを人々に周知徹底させる目的で、掟、条目、禁制などを板に書き掲げていた場所である。宿場町の高札場には、特に宿継ぎの駄賃を定めた高札なども掲げられ、また、宿場間の距離を測る基点ともなっていた。
奈良井宿の高札場は、京方の入口にあたる場所におかれ、明治のはじめ頃まで使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。この高札場は、当時の絵図にもとづいて昭和48年(1973)に復元されたものである。 |
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奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は、生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられ、また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥井峠を越えるために水場で喉を潤した。
現在、奈良井宿には6箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持・管理を行っている。 |