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宿場には旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場まで運ぶという業務があった。そのため宿場は、本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっている。
宿泊・休憩施設 |
・本陣 1軒 (市岡長右衛門)
・脇本陣 1軒 (森孫右衛門)
・旅籠 約30軒 |
人と荷物の継立 (人足や馬の確保) |
・問屋場 2箇所(本陣と脇本陣が問屋を兼務) |
文書の輸送 (飛脚業務) |
・問屋場 2箇所 |
<中津川宿・脇本陣跡>
江戸時代から実際に使用されてきた「上段の間」(床の間、書院棚付き畳8畳)と「御手水所」(便所)を復元整備した。脇本陣の一部のみの再現整備だが、建具、柱、欄間等を再利用している。
<森家の由来>
森家の先祖は安土桃山時代の活躍した森長可の一族といわれている。森長可は織田信長に仕えた美濃金山城主(現・可児市)。天正12年(1584)小牧。長久手の戦いで死去している。森家に伝わる古記録によると、貞享元年(1684)頃に恵那郡岩村から中津川宿に移り住み、屋号は岩村屋といった。
中津川に居を構える頃から相当の財力を持っていた森家は、中津川宿本町の家屋屋敷を買い求め、京和3年(1803)頃に脇本陣、問屋を勤めるようになった。森家当主のの名は「仁兵衛」や「伝六郎」と名乗るが、後の代には「孫右衛門」の名を世襲する。 |
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中津川宿の町並みの長さは約1.1qで、天保14年(1843)の古文書によると、戸数228戸、人口923人で東美濃路では一番大きな宿場町であった。三と八のつく日には市場が開かれ、また恵那郡一帯の米の相場も中津川宿で決められるなど、商業の中心地として繁栄していた。
江戸方から茶屋坂、淀川町、新町、横町、下町と町並みが続き、横町には直角に2度曲がる道ー桝形の地形が残っている。
5、6段目の画像は、土蔵に展示してある枕、食器、長持ち、箪笥である。 |
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