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長崎市寺町通り・禅林寺と深崇寺の間に「龍馬通り」と名づけられた細い道がある。ここから山手(風頭公園)の方に急な石段の階段を上がっていく。坂道の中間ぐらいに坂本龍馬が設立した「亀山社中跡」がある。当時、龍馬や亀山社中の志士たちが、何度もこの道を駆け上がった事でしょう。
<近藤長次郎>(1838〜1866 高知県生まれ)
幼い頃から学問、武芸を好み、江戸にも遊学して高島秋帆からも砲術を学んだ。勝海舟に入門し、神戸の海軍操練所でも修行を続け、慶応元年(1865)の亀山社中結成に参加し、龍馬の片腕と呼ばれた。この年、薩摩藩の名義を借りた、長州藩のための軍艦・武器購入の計画が起ると、中心的役割を果たした。しかし、慶応2年(1866)英国への単独渡航が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹した。のちに、それを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と、妻・お龍に語っている。近藤の墓は、現在でも長崎市寺町の皓台寺に残されている。 |
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<陸奥宗光>(1844〜1897 和歌山県生まれ)
明治の外交官・政治家。文久3年(1863)勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めた。その後、亀山社中・海援隊と、終始龍馬と行動を共にした。龍馬は陸奥宗光の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語っている。また、陸奥宗光は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっている。明治以後は政府に入り、農商務大臣・枢密顧問官をつとめ、明治25年(1892)外務大臣となり条約改正と日清戦争の外交指導に尽力した。 |
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<長岡謙吉>(1834〜1872 高知県生まれ)
大阪で医術を学んだほか、長崎でも修行し、安政6年(1859)に再来日したシーボルトに師事したとも伝わっている。その後脱藩して、坂本龍馬と再会。亀山社中・海援隊と行動を共にした。学術に秀でた長岡謙吉は、龍馬の秘書役、海援隊の文司として活躍し、慶応3年(1867)の「船中八策」や「大政奉還建白書」の作成にも携わった。龍馬の死後、慶応4年(1868)には土佐藩から海援隊長に任命された。明治以後は政府に入り活躍した。 |
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<中島信行>(1846〜1899 高知県生まれ)
明治の政治家。元治元年(1865)脱藩し、のちに亀山社中・海援隊に参加した。龍馬の信頼が厚く、慶応3年(1867)に起こった「いろは丸事件」の損害賠償金問題では、紀州藩との交渉と賠償金の受け取りにあたった。また、慶応3年(1867)9月、龍馬が土佐に最後に帰郷したときにも同行している。明治以降は政府に入り、神奈川県令や元老院議官、(初代)衆議院議長、イタリア駐在特命全権公使等をつとめた。 |
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<沢村惣之丞>(1843〜1868 高知県生まれ)
文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862)坂本龍馬と土佐を脱藩した。その後、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と常に龍馬と行動を共にし、龍馬の活動を支援した。沢村惣之丞は学問を好み、特に英語と数学に優れていたといい、また長府藩士(長州藩の支藩)にも航海術を教えている。慶応4年(1868)1月、海援隊が長崎奉行所を占拠したとき、誤って薩摩藩士を射殺した責任をとり切腹した。沢村惣之丞の墓は、現在でも長崎市筑後町の本蓮寺に残されている。 |
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坂本龍馬が慶応元年(1865)に設立した日本初の商社を「亀山社中」という。亀山は坂本龍馬らが最初の拠点とした場所(地名)から命名し、社中は仲間という意味である。亀山社中は、後に「海援隊」と改称されている。 |