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小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山と熊野本宮大社を最短距離で結ぶ参詣道である。熊野本宮から高野山へ向かう場合は「高野道」とも呼ばれていた。この参詣道は、紀伊山地を南北に縦走することになる。
<歴史的概要>
大辺路・小辺路という言葉の初見は、「醒酔笑」という笑話集の小話の一つに、「へちまの皮とも思わぬとは、紀の国の山家に、大辺路・小辺路とて、峰高く岸けわしく、つづら折りなるつたひ道(葛のように幾重にも折れ曲がった細く険しい山道)、人馬の往来たやすからぬ切所(難所)あり。」とある。辺路とは、辺鄙(へんぴ)なところという意味で、遍路ともいう。
小辺路を通って参詣したことで知られる最も古い例は、天正元年(1573)の土居清良(伊予国の武将)で、戦死した父の菩提を弔うために高野山に参詣し、ついで本宮・那智・新宮を巡拝し、伊勢に向かっている。
その後、近世前期の17世紀後半には、河内の庄屋で俳人寺内安林あるいは松尾芭蕉の門人である河合曽良の参詣記、また、芭蕉門下十哲の一人である向井去来もこの道を通っており、その際には次のような歌を残している。
つづくりも はてなし坂も 五月雨 |
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上左画像は、果無峠への登山口。上右画像は、「谷瀬の吊り橋」で、長さ:297.7m、高さ:54mである。 |
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<賀名生(あのう)皇居跡>
延元元年(1336)12月21日、後醍醐天皇は京都花山院を脱出、23日阿那宇に着き、ここを皇居とした。(堀孫太郎信増の邸宅に迎えられた)28日には吉野山に潜幸になっている。
かくて正平3年(1348)高師直吉野山を犯したので後村上天皇は逃れて、9月頃賀名生の皇居にいられ、時に住吉・観心寺・天野山金剛寺に、一時は京都に遷幸された。南朝の後村上、長慶、後亀山の3天皇の皇居として使われたとされる。
殊に正平6年足利氏が帰順したので、北朝の天皇の廃位を宣し、南朝の年号に統一し、神器も皇居の内侍所におさめられた。
現在の堀家は、皇居のあとで普通の民家とは異例の特色ある稀有の遺構を有している。藁葺門の扁額は、天誅組吉村寅太郎の掲げたもの。尚堀家には南朝関係という遺品の記録及び天誅組浪士帖等多数の宝物がある。 |
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<賀名生の由来>
延元元年(1336)12月足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は吉野潜幸の途次、この地に拠られた。当時この地は「穴生(あなう)」と呼ばれていた。
正平6年(1351)10月足利尊氏が南朝に帰順し、京都の多くの公卿や殿上人が穴生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年(1352)正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「加名生(かなう)」と名付けられ、京都に還幸された。
これが世に言う正平の一統である。後に「加名生」は畏れ多いと「賀名生」に改められたと伝えられている。
明治の始めになって「あのう」に呼び方を統一したが、下賜された南朝の歴史を伝える地名も昭和34年(1959)の合併で消え、ここに「賀名生の里」として刻まれるのみである。 |