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東海道五十三次の32番目の宿で中くらいの規模だった。現在でも、格子戸のある古い民家等江戸時代の面影を残している。この地区は、鎌倉時代から「白い砂州の上に開けた集落」の事を「白須賀」と言う。その名の通り宿場は海辺近くにあったが1707年の大地震で壊滅した。そのため、宿場を高台(潮見坂の上)に移した。 |
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<曲尺手>(かねんて)
この白須賀宿の特徴は道路が直角に曲がっていることだ。それを曲尺手(かねんて)と地元では呼ぶ。曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が道中かち合わないようにする役割を持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりだった。しかし、主君を駕籠から降ろすことは行列を指揮する供頭にとっては一番の失態になる。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して行列がかち合いそうなら休憩を装い最寄りのお寺に緊急避難をしたのである。 |
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<本陣跡>
本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中に宿泊・休憩した施設です。宿場の中央二大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物でした。本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもあった。
この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。
<脇本陣跡>
副本陣ともいい、大名の家来などが宿泊した。脇本陣三浦屋惣次郎家は桐屋と称した。建坪93坪、門構えはなく、玄関つきで、間口10間、奥行17間半、畳164畳・板敷29畳、総坪数517坪となっている。
<屏風>
白須賀宿本陣で、屏風として使用されていたといわている。 |
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<夏目甕麿・加納諸平邸趾>
国学者で歌人でもあった夏目甕麿(なつめ みかまろ)・加納諸平(かのうもろへい)父子の生誕地で、甕麿は本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めた。諸平は、甕麿の長男だったが、紀州和歌山の藩医の養子となり、全国的にも有名な学者です。
<夏目甕麿>
白須賀生まれの国学者夏目甕麿は、通称嘉右衛門、萩園と号した。酒造を業とし傍ら国学を内山真龍(またつ)に学び、のちに、本居宣長の門に名を連ねた。賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓(じょうし)出版して国学の普及につとめた。著書に「吉野の若菜」等数編がある。文政5年(1822)没。
子供の諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平(もとおりおおひら)のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに、紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。
諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政3年(1856)。 |
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白須賀宿は、元来、汐見坂下の海岸沿いに町並みがあったが、宝永4年(1707)の地震・津波により大きな被害を受け、この後汐見坂上の台地へ宿場の移転がおこなわれた。移転後の町並みは、十四町十九間の長さがあり、道幅は2間であった。
東から東町・橋町・伝馬町(東・中・西)・高見町・西町があり、この中に本陣1・脇本陣1・旅籠屋27軒、人口は天保14年(1843)の調査では、加宿(かしゅく)境宿新田を含めて2704人、総家数は613軒が軒を連ねていた。宝永5年(1708)に移転したことにより、汐見坂から境宿新田までの限られた地域に宿割をしたためか、間口は平均3.7間であり、元町の4.3間より狭くなっている。 |
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<白須賀宿を襲った津波>
宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波は、宿場を全滅させる深刻な被害をもたらした。翌年には津波の被害を避けるため、幕府の助成金を得て、汐見坂下の元町から台地上の現在地へと宿場を移転した。宿場だけでなく、渥美半島の遠州灘に面した海浜沿いの村々も台地上に移転している。宝永4年の津波は、それまでにない大きな被害をもたらした。
<津波被害の様子>
幕府の重鎮林羅山が、慶長9年津波のあった2年4ヶ月後の慶長12年3月5日に、坂上に移転する前の白須賀宿に宿泊している。その日は天候が悪く、浜に打ち上げる大波を人々は恐れている様子であった。宿の主人が言うに、2、3年前に地震によって高さ8mほどの津波が宿場を襲い、全家屋が浸水して裏山に登ったものだけが死なずにすんだという。羅山もこの夜は心配で寝られなかったが何事もなかった。 |
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潮見坂上にある「おんやど白須賀」。白須賀宿に関する資料等がわかりたすく展示されている。 |