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高札場とは、江戸時代に法度や掟書などを書いた木の板(高札)を掲示した施設で、多くの人の目を触れるように、集落の中心や人通りの多い街道沿いなどに設けられていた。岩村の高札場は下町升形の内部、この説明版の反対側の土塁沿いに建てられていた。左手の祥雲寺(西町庚申堂)境内にある高札場は、ここにあったものを模して、平成元年(1989)に建てられたものである。
<高札のいわれ>
市場・主要道路の辻など、庶民の多く集まる場所を選んで、人目につきやすいように高く掲示するところから高札・懸札といった。したがって板は、木質の丈夫な桧、或いは梅・杉などを用いた。堅板を本制とするが掲示条数の多いときは横板とした。
初めに「禁制」「制札」「定」などと記し、そのあとに禁令の条項を列記した。次いでこれを禁ずること、違反者を罰することを示し、年月日、制定を与える者または、下僚の官・姓で終わる。
こうした書式が一定したのは江戸時代になってからのことで、それまでは、地方・制札授与者・年代などによって書式を異にしていた。
また、江戸時代になっても地方によって禁制の文言を異にしたので、六代将軍家宣は正徳元年(1711)朝鮮来聘(らいへい)使来朝に際して、幕府領内高札文言の統一をはかり、享保元年(1716)将軍吉宗は、その遺志をついでそれを促進した。これより後の触書は、札にしたため出して置く旨を公布して、ここに高札は制令の公布式となった、
この方法は当時として最も便利であったので、地方によっては明治15・6年まで行われていたという。付近には自身番屋を置いて、平素の保管はもちろん、火事・暴風雨などに際しては、町役人らは懸命にこれを守った。
高札の前を通るとき、冠りものをとり、敬礼して過ぎる人を、心がけのよい人といったという。村落の辻に設けられのを辻札、漁村のを浦高札、山林の山札、関所の関所高札といった。明治4年に布告等掲示の制が公布されてからその使命を終えた。 |
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