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豊橋市二川町と大岩町は、江戸時代に東海道五十三次中33番目の宿場、二川宿が置かれていた。二川宿は、二川宿と加宿大岩町からなっていて、町並みの長さ12町16間(約1.3q)、文政3年(1820)の記録では、本陣と脇本陣各1軒、家数合わせて306軒、人数1289人(男666人、女623人)だった。
二川には、現在でも江戸時代の町割りがほぼそのまま状態で残り、東海道筋では、滋賀県草津市の草津宿本陣田中家(国指定史跡)とここだけに現存する本陣の遺構がある。(豊橋市二川宿本陣資料館パンフより引用)
旧東海道の町並みを歩くと、往時の家並みの風情が残り、落ち着いた静かなたたずまいや、先を見通せないように道を直角に曲げてあるなど歴史を感じる。改修復原した本陣や資料館には、参勤交代の有り様を展示してあり、学ぶことも多い。 |
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<本陣>
江戸時代、大名・公家・幕府役人などが宿泊・休憩する施設を本陣と呼び、寛永年間(1624〜1644)に整備された。他の旅籠屋と違い、門・玄関・式台などを造ることが許されており、主人は宿場の有力者で、苗字帯刀を許されているものもあった。
本陣とは本来、戦の場合などに一軍の大将ががいる場所を指す言葉です。江戸時代に参勤交代が始まると、大名は宿場の有力者で家屋敷が広い家を借り上げて休泊するようになった。これらの家は大名宿と呼ばれていたが、後に幕府より本陣という名を名乗ることを許された。
<脇本陣>
大通行のときや、本陣の利用が重なった場合、本陣の補助的役割を果たした施設を脇本陣と呼び、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。
旅籠屋のうち、比較的規模の大きなものが指定され、大名などの利用がないときには、一般の旅人も泊まることができた。本陣が2軒以上ある宿場では、脇本陣がないところもあった。
<旅籠屋>
武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの宿屋を旅籠屋と呼び、江戸時代に入って発達し、宿場の中央に軒を並べていた。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と飯盛女を置かない平旅籠とに分かれていた。
<木賃宿>
旅人が米を持参して自炊を行い、薪代を支払う形式の宿屋を木賃宿と呼び、江戸時代には、食事を出す旅籠形式の宿屋が普及したため、宿場のはずれや町裏で営業することが多く、大道商人や助郷人足・旅芸人など貧しい渡り者を対象とする宿となった。 |
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<旅籠屋「清明屋」>
清明屋は江戸時代の後期寛政年間(1789〜1801)頃に開業した旅籠屋で、代々八郎兵衛を名乗っていた。本陣のすぐ隣にあったことから、大名行列が本陣に宿泊した際には、家老など上級武士の宿泊所ともなった。 |
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<旅籠屋の食事>
旅籠屋では晩と朝、二度の食事が出た。煮物と魚の一汁二菜か、もう一品付く一汁三菜が多かったようです。 |
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往時の二川宿を彷彿させる建物が旧東海道沿いに点在している。この道を参勤交代の武士や虚無僧、飛脚、巡礼に出る人など多くの旅人が行き交ったことだろう。 |