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舞坂宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された53次のうち江戸から30番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人口1204人・戸数265戸だった。また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源間徳右衛門)があり、源間本陣の向側に脇本陣(茗荷屋、堀江清兵衛)があった。
今日、当時をしのぶ町並みは失われてしまったが、天保9年(1838)建築の旧脇本陣「茗荷屋」(みょうがや)の上段の間があった書院棟が残されていた。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物を復元した。
舞阪町(現在、合併して浜松市西区舞阪町)には、浜名湖西岸の新居宿への渡船場(雁木)跡、脇本陣(復元)、旧東海道松並木、見付石垣等がある。舞阪の「阪」は、江戸時代、舞坂と表記していた。舞坂宿と表記するのが正確である。 |
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<脇本陣>
建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間あった。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箟書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建物であることが判明した。
脇本陣とは、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時(大通行のときなど、本陣の利用が重なった場合など)に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われてた。本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたる。
脇本陣には本陣と同じく宿場の有力者が選ばれ、江戸時代中期以降に出現した。大旅籠を改造、転化したものが多く、そのため二階建ての場合が少なくない。また、本陣と同様に門構・玄関の両方か、あるいは一方を構えた。
本陣は、大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設。平屋建を原則とするが、ほかの旅籠屋と違い、門・玄関・上段の間などを造ることが許されていた。なお、旅籠屋は、武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの旅宿であり、木賃宿は、旅人が薪代を払って自炊する宿屋のことである。 |
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、脇本陣の二階の部屋と二階から下(旧東海道)を見る。本陣は平屋建てだが、この脇本陣は普段庶民を泊める旅籠屋を営む都合上、主屋に二階を備えていた。 |
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<松並木>
舞阪町指定文化財の松並木、一直線に700mほど続いている。御油の松並木ほどの規模ではなく、また松の上部が剪定・揃えられているためやや小振りの感はするが、それでもかつての景観を彷彿させてくれるものがある。松は往時の松ではなく後に植えられたものである。 |
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<見付石垣>
江戸時代中期ごろ構築。「見付」は見張所にあたる。諸侯の通行の際などには、石垣の横に六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった。こうした遺構が残っているのは大変珍しいとのことである。 |
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<西町常夜灯>
舞阪には往還道路沿いに3つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことが分かる。
舞坂宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 |
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<北雁木>(きたがんげ)
ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場後で明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築された。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されている。両側の石垣の白い部分は明和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。
雁木とは階段状になっている船着場のことをいうが、地元では「がんげ」と昔からいっている。舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場(とうかば)、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木(ほんがんげ)と呼ばれている。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられている。 |
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街道筋(往還道路)に沿った本陣・脇本陣の模型。 |
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往還道路西端に北雁木の模型。ここから浜名湖を渡り、新居宿(新居関所)へ向かった。 |