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福島関所は、東海道の箱根と新居、中山道の碓氷とならんで、江戸時代の四代関所として重要視されたところである。俗に「入鉄砲と出女」といわれて、江戸へ向かって持ち込む鉄砲と、江戸の方角から各関所を超して出ていく女は厳しく取り立てられてものである。 |
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関所は、町の最東端の上町より四五十間(約100m)の急坂を上りつめた所にあり、背後は根井山をひかえ、急傾斜をもって木曽川にのぞみ、木曽川の川岸である。十数間(約20m)の断崖との間は僅か巾36mの平地に位置していたので、この地は木曽のほぼ中央に当たるとともに、江戸と京都のちょうど中間に当たっており、重要な位置に当たる。 |
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<関所女通行手形>
文久元年皇女和宮の通行に際し、人足に出ていた父親が薮原宿で病気になったので娘が看病のため関所を通してほしいという手形である。 |
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<鉄砲手形>
木曽谷中の村民でも、鉄砲の関所通過には手形が必要であった。この手形は、寛延3年、菅村の者が「おどし筒鉄砲」を福島の鉄砲鍛冶屋に修理に出したもので、庄屋が発行している。 |
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<木曽黒沢村女手形>
木曽の宿村の女は、庄屋から山村家家老宛の女手形で通用した。表示した黒沢村の安政2年から慶応3年までの12年間の女手形から、当時の木曽の村の女の旅行の実態をうかがうことができる。 |
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木曽路を通った参勤交代の大名・著名人 |
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この模型は現存する関所平面図、立面図、諸記録などを参考として復元したもので、江戸時代中期頃の関所の形態がほぼ完全な姿で再現されているとみてよい。
向かって右側に並ぶ民家は福島宿の上町で、宿のはずれの意慶坂とよぶ急な坂をのぼったところが関所の西門である。
関所は御関所(上番所ともいった)とよぶ間口5間(約9m)、奥行5間の建物と、下番所とよぶ間口3間奥行6間の建物を中心に、東西に門を構え、東西約45m南北約3mの敷地のまわりに柵をめぐらし、さらに東門外から後方根井山の頂上まで約200mにわたって柵を設けている。
西門を入った右側の土塀の前には、関所の三つ道具とよばれる「さすまた」「もじり」「つくぼう」が関所の威厳を示すように立ててある。
上番所の式台の前では土下座している男女は、上番の役人に女手形を差し出して手形の書類検査を受けているところである。当時は女の一人旅というのは少なく、たいていはこのように男が同道したものといわれている。
上番所に続く表の方へ張り出したところが、下番所である。書類検査の終わった者はここで身体検査を受けるのである。これが「女改め」である。検査が終わると、下番から上番に異状のないことが報告され、その指示によって下番が「通れ」の許可を与え、無事通過することができるのである。
下り女(江戸へ行く女)は、関所手形をここで書き換えてもらわなければならないので、関所を通過するまでに約一刻(2時間)かかったものといわれている。
左側の方からは、大名行列が関所にさしかかろうとしているが、たとえ大名でも、乗り物の戸を開けて相乗りのないことを明示しなければならなかったのである。 |