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<一里塚跡>
藤沢では、江戸から12里目の一里塚が遊行寺坂(西富1丁目)に、13里目の一里塚が四ツ谷(城南一丁目)にあった。一里塚は旅程の目印になるとともに、榎や松などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。この遊行寺坂(道場板)の一里塚は左右とも榎であったようだ。
現在の坂はかっての道を掘り下げたもので、一里塚は切通しのような崖の上にあったが、今は何も残っていない。 |
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<江の島道・江の島弁財天道標>
藤沢宿内の遊行寺橋(旧太鋸橋)で境川を越えた左手(南側)には、かつて「江の島弁財天一ノ鳥居」があり、ここから江の島へ向かう境川沿いの道が「江の島道」です。鳥居の脇には「ゑのしま道」と刻まれた江島弁財天道標があった。これは元禄時代(17世紀後半)に杉山検校が沿道に奉納したと伝えられたもので、現在も道沿いに等に十数基が残っている。 |
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<遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡>
江戸からの東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を超えて鎌倉郡から高座郡に入る。橋を渡って、右手が大久保町。橋の袂に高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていた。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。 |
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<蒔田本陣跡>
江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として、各宿場に本陣を指定した。江戸時代に外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節ということで、蒔田本陣に宿泊した記録がある。
通常、本陣にはその地の旧家や富裕層等、有力宿民が指定され、家屋の格式も特別なものだった。江戸時代の地誌「相中留恩記略」に記された蒔田本陣の図からも、他とは画然とした本陣の様子が判る。 |
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脇本陣は本陣の予備的使節で藤沢宿では1軒だったが、享保3年(1803)の記録では2軒となっている。 |
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<問屋場跡>
宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では、大久保町と板戸町に一ヵ所ずつあった。問屋場では問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもとに、人馬と荷物の割り振りや賃銭の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚(公用書状の逓送)などが行われた。
また、近隣の村へ助郷役や街道掃除役の割り当ても行った。この場所は板戸町問屋の敷地跡で、後に藤沢警察署となり、現在は消防署出張所になっている。 |