|
|
|
|
|
|
|
|
有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、間宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞染めが考案されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。
有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)大火が起こり全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠(ぬりごめ)造り、2階の窓は虫籠(むしこ)窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。
名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。 |
|
|
|
|
|
<竹田家住宅>
当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。竹田家は、屋号を笹加と言う。
・市指定有形文化財
主屋 一棟、書院棟 一棟、茶席 一棟、宝蔵 一棟、一・二番蔵 一棟、縄蔵 一棟、付随棟(西門・長屋門・味噌蔵) 三棟 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<服部家住宅>
服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、井桁屋を屋号とする。
屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する。二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が、有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として昭和39年(1964)県の有形文化財にしてされた。
主屋の二階は黒漆喰の塗籠造で屋根両妻に卯建を設ける。土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠(なまこ)壁とし、防火対策を行っている。
有松を代表する価値ある建物群である。 |
|
|
|
|
|
<服部幸平家住宅の倉>
服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。
明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台にの上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上、非常に重要である。
昭和62年(1987)、県の有形文化財に指定された。 |
|
|
|
|
|
<岡家住宅>
江戸末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では、現存する唯一の例で意匠的にも優れている。
・市指定有形文化財
主屋 一棟、作業場 一棟、東倉 一棟、西倉 一棟 |
|
|
|
|
|
|
|
<中舛竹田荘>
中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられている。
老朽化が進み、建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、、所有者の竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド基金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現した。
最下段の版画は、鳴海の宿の名が書かれているが、有松を描いたものである。 |