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弥生時代の中頃、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられている。中からは14基の甕棺(かめかん)が見つかっており、一般の墓と違い、ガラス製の管玉や青銅の剣など、貴重な副葬品が納められていた。北墳丘墓に葬られている人々の身分の高さを示している。 |
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縄文時代には。人が亡くなると地面に穴を掘って、直接遺体を埋めていた土坑墓 が、弥生時代になると、石棺や木棺や甕棺(かめかん:素焼きの棺)などに遺体をおさめて埋葬することが始まった。
北墳丘墓では、大型甕棺を2個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという葬法(大型合口甕棺)が用いられた棺が14基出土している。これら甕棺による埋葬方法は、現在のところ、日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州でしか発見されていない特徴的な方法です。こうして組み合わされた甕棺の大きさは、長さ約mにもなる。 |
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展示されている遺構面及び甕棺は実物です。甕棺の中には、出土品のレプリカが発掘時の姿で復元されている。 |
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<社会の階層化>
吉野ヶ里遺跡の中には、墳丘墓の他に列状に甕棺が埋葬されていた墓地(甕棺墓列)が見つかっている。しかし、北墳丘墓の甕棺は、甕棺墓列のものと比べてサイズが大きいこと、銅剣や管玉など数々の副葬品をともなっていたこと等から、身分の高い人物を埋葬した墓であると考えられている。
また、北墳丘墓では14基の甕棺が発掘されたのに対し、甕棺墓列の場合、同じ面積で比較すると、100基以上の甕棺が見つかっている。さらに、北墳丘墓の近くにも列墓が見つかっているが、その分布をみると、北墳丘墓の周りには空白が有り、北墳丘墓が隔絶されている事がわかる。
このように、一般の人々が埋葬されていたとみられる列埋葬とは際立違いを見せる大型墳丘墓(北墳丘墓)の出現は、この時代の社会が大きく二つに階層分化したいたこと、つまり、首長・祭事者といった特定身分によって統括。指導される政治的社会(クニ)が成立したことを裏付けている。 |