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<縄文人の精神性の高さを示す遺跡>
北黄金貝塚は縄文時代の中頃(今から約6,000年〜4,000年前)のムラの跡です。丘の上には貝塚のほか、住居や墓、シカを捕るための落とし穴、祭祀のために土を盛り上げた跡(盛土遺構)などが発掘された。また、台地のすそにある湧き水のほとりには、調理道具を供養した跡(水場の祭祀場)や水汲み用の足場跡が発見されている。
貝塚は5ヶ所あり、一番大きな貝塚の中や下からは人骨を伴った墓が発見されている。このことは、縄文人にとっての貝塚は「すべての生き物の墓地」であり、ムラの中でも神聖な場所であったことを示している。
この遺跡は昭和23年(1948)に峰山巌氏によって発見された。その後、伊達高校郷土研究部や札幌医科大学解剖学第二講座、伊達市教育委員会による数次の発掘調査が行われ遺跡の学術的価値の高さと保存状態の良さから昭和62年(1987)に史跡に指定された。
伊達市では平成6年(1994)から史跡の整備事業を行い、平成13年(2001)に史跡公園としてオープンした。公園内では、発掘調査の成果に基づいて復元された貝塚や堅穴住居、発掘した状態をそのまま保存展示している水場の祭祀場を見ることができる。 |
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<竪穴式住居>
平成10年(1998)に発掘された竪穴式住居跡に復元したものである。住居跡の時期はおよそ4,500前のものであることが、炉(いろり)に埋められた土器の種類からわかっている。
この時の発掘調査では、同時期に存在した家は5軒ほどだったことがわかった。1軒の家に5人前後の人が住んだと考えると20人から30人くらいが暮らしていたと想像できる。
縄文時代のムラは例外的に大きなものもあるが、大多数は北黄金貝塚のような小さなムラであった。縄文人たちは川か湧き水のある場所にムラをつくり定住していた。
北黄金貝塚の縄文人たちは、噴火湾沿岸のムラより遠方の人々と交流していたことが、黒曜石や頁岩、タカラガイなどの出土によりわかっている。しかし、同じ規模のムラとは7〜10qほどの距離を保っていた。このことは、自然環境や資源を守り、人々の争いも防ぐという縄文人の知恵といえるかもしらない。 |
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<豊富な貝類・魚骨・海獣骨が出土した集落遺跡>
内浦湾を臨む標高10〜20mの丘陵上に立地している。さまざまな施設が見られることから拠点集落と考えられ、台地上には居住域、墓域と一体となった貝塚がある。
貝塚からはマガキ、ホタテガイやマグロ、ヒラメ、オットセイ、クジラなどの骨が見つかっており、漁労を中心とした生活であったことがわかる。また、温暖な気候であったことを示すハマグリ主体の貝塚も見つかっている。低地の湧水点水場遺構からは、故意に破壊したすり石と石皿が大量に出土し、祭祀的な性格を持つ場と考えられている。沿岸地域の生活や海進・海退など環境の変化への適応、集落内でのまつりや儀式の様子が明らかになった。 |
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・貝塚に作られた墓。約6,000年前(左画像)
・クジラの骨で作られた刀。約6,000年前(右画像) |
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名称 |
国指定史跡北黄金貝塚 |
主な時期 |
約6,000〜4,000年前(縄文時代前期〜中期) |
史跡指定年 |
昭和62年(1987) |
史跡指定面積 |
87,539.88u |
特徴 |
@自然環境の変化(気候変動による海岸線の移動)による居住地の変化がよくわかる。
A貝塚や水場の祭祀場から縄文人の精神文化の内容が読み取れる。 |
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