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<芸術性豊かな土偶や多くの副葬品が出土した大規模な共同墓地>
岩木川左岸の標高7〜18m程度の丘陵上及び低湿地に立地している。海進期に形成された内湾である古十三湖に面していた。土坑墓が多数群集していることから周辺の小規模集落によって構築、維持・管理した共同墓地と考えられる。土坑墓は盛土や底部の溝があり、土器等の供献品、玉などの副葬品が出土している。墓域は長期間にわたって構築され、まつりや儀式が継続して行われたと考えられる。
台地周囲の低湿地からが、漆塗り土器や漆器、植物製品、玉類など多数の遺物が出土している、中でも大型土偶(国指定重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶」の名称の起こりとなったことで知られている。、 |
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この土偶は、亀ヶ岡石器時代遺跡南部の沢根低湿地から出土した。眼部に特徴があり、イヌイットなどの北方民族が使う雪めがね、すなわち遮光器をかけた人を表現していると考えられたことから「遮光器土偶」と名付けられた。昭和32年(1957)国重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に収蔵されている。
年代 |
縄文時代後期(紀元前1,000〜400) |
発見 |
明治20年(1887) |
大きさ |
高 34.2p 幅 25.3p 厚 9.5p |
特徴 |
中空土偶、左脚欠損 |
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<台地南側の土坑墓群>
台地南側の雷電宮地区では、昭和57年(1982)の青森県立郷土館の発掘調査により、20基ほどの土坑墓(地面を楕円形や円形に掘りくぼめて死者を埋葬した墓)が発見された。墓の中からは、死者に供えた藍胎漆器(らんたいしっき:植物質の網かごを漆で塗り固めたもの)・土器片を利用した円板・土偶などが出土した。上面にローム盛り上げた墓も確認された。
また、土坑墓群を覆う層の中から、縄文時代の土器や石器が多数出土した。
・年代:縄文時代晩期(紀元前1,000〜300) |
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土坑墓を半分に断ち割って調査したところ、底部のまわりに溝がめくることがわかった。同時期の他の遺跡を参考にすれば、側面が木の板で囲われた墓だった可能性も考えられる。底面では、2ヶ所に赤い顔料(ベンガラと水銀朱)の集中が確認された。亡くなった人に撒かれたものでしょう。上の画像は、発掘された土坑墓(長さ164p、幅83p)をほぼ実物大に表示したものです。 |
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台地北端部には土坑墓が重なり合って分布し、そのうちの1基から破片を含めて120点ほどの玉類が出土した。玉類は土坑墓 の片側に集中して出土したことから、葬られて人は、玉類の集中する北西側に頭を向けていたと考えられる。多数の玉類は、亡くなった人の上に上に撒かれたものかもしれない。上の写真は、発掘された土坑墓
(長さ162pm、幅67p)をほぼ実物大に表示したもです。 |
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<台地北側の竪穴式住居跡・貯蔵穴>
台地北側では、平成28年(2016)・29年(2017)のつがる市教育委員会の発掘調査により、縄文時代中期の中頃の竪穴式住居が確認された。また、住居跡の周りに縄文時代前期中頃から中期中頃にかけての多数の貯蔵穴(フラスコ状土坑)が分布することから、この時期には集落が広がっていたと考えられる。
その後、縄文時代晩期に入ると、この場所では多数の墓(土坑墓群)が広がる、このことから、亀ヶ岡石器時代遺跡は長期間におよぶ遺構であり、時期により土地の使い方が変化したことが分かる。
上左は、縄文時代前期〜中期の貯蔵穴と後期の土坑墓
上右は、縄文時代前期〜中期の貯蔵穴 |