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<環境の変化を表す貝塚を伴う集落遺跡>
太平洋岸に続く小川原湖西岸の標高約30mの段丘上に立地する。海進期に形成された湖沼地帯にあり漁労や貝の採取に適した場所だった。集落は、段丘平坦部に竪穴建物や貯蔵穴などで形成された居住域、その外側に墓域が配置されている。
貝塚は丘陵の北と南の斜面にあり、下層には海水性、上層には汽水性の貝塚が形成され、海進・海退による環境の変化がわかる。出土した釣り針や銛などの漁労具、魚骨、動物骨などから漁労や狩猟が行われたと考えられる。
貯蔵穴の中からは埋葬された人骨や犬の骨が検出しており、墓に転用されたと考えられる。東北地方有数の大規模貝塚を伴う拠点集落で、湖沼地帯における生活と集落の様子が明らかになった。 |
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縄文時代の住居は、一般的に地面を掘りくぼめて、その上に屋根をかけた半地下式の竪穴住居だった。竪穴住居は、木材や樹皮、水辺に生えている茅などを材料に造られた住まいで、世界各地に造られていた。
竪穴住居の形は、時代によって特徴があり、角の丸い正方形、楕円形、円形などがある。また、柱の数や大きさもそれぞれ形と関連して特徴がある。なお、竪穴住居以外に地面を掘らずに柱を立てた平地住居や掘立柱建物などもあった。
二つ森貝塚ではおよそ148軒の竪穴住居跡が確認されている。 |
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発掘調査では、竪穴のくぼみや柱を立てた柱穴、火を焚いた炉跡などから竪穴住居の跡を確認するすることができる。なお上屋(屋根)は植物質の材料で出来ているので、時間とともに腐ってしまいほとんどの場合残っていないが、火災で蒸し焼きになった住居跡から、上屋の茅などの上に土をかけた土葺きの竪穴住居だったことが分かる場合もある。また、壁際に柱を立てた柱穴が何列か見られるものもり、増築して床面をひろげたことも分かる。
住居の中で火を焚いた炉の跡には、単純に床を利用した地床炉、石を利用した石囲炉、土器を利用した土器片囲炉、埋甕炉など時期によって特色がある。 |
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貝塚が築かれた当時は温暖化に伴う海面上昇(縄文海進)の影響で、遺跡が立地する台地下に干潟環境が整っていたと考えられている。15ヶ所の貝塚をはじめ多数の竪穴建物群・貯蔵穴・墓の跡などの遺構や、貝塚から見つかる貝類・獣骨等は当時の集落構造や生業。生活を示す点で重要であることから国史跡に指定された。
約5,500年前〜4,000年前(縄文時代前期中頃から中期後半) |