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松尾芭蕉は、寛文12年(1672)29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町1丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場に間近な繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。
日本橋を北に渡った東側に魚市場があった。河岸には魚を満載した舟が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わった。芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである。 |
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