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<殺生石と松尾芭蕉>
元禄2年(1689)4月18日、この地を訪れた俳人松尾芭蕉は、「おくの細道」に次のように記している。
「殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(地面の砂の色)の色の見えぬほど重なり死す。」
この様子から、当時は相当の火山性ガスが発生していたと思われる。また、この地に残した一句
「 石の香や 夏草赤く 露あつく 」
現在は、ガスの噴出量は少なくなっているものの、硫黄色を残した巨石群と噴気は、往時の雰囲気を漂わせている。 |
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<殺生石の由来>
殺生石は、昭和28年(1953)1月12日史跡に指定された。この由来の概略は、昔中国やインドで美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が、今から800年程前の鳥羽天皇の世に日本に渡来した。
この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本の国を亡ぼそうとしたが、時の陰陽師阿部恭成にその正体を見破られて那須野ヶ原へと逃れてきた。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えたので、朝廷では三浦介上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまった。
ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えたので、これを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていたが、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封じたのでようやく毒気も少なくなったと語り伝えられている。 |
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<湯の花畑>(湯の花採取場)
那須温泉の人々は、徳川幕府の頃から、年貢米の代わりに湯の花を納めていた。湯の花とは「みょうばん」のことです。噴気の出るところに赤土をしめかため雨水がしみこまないようにして萱葺き屋根を作る。半年たつときれいに「みょうばん」が結晶し、花が咲いた様になる。これを湯の花畑と呼び、春・秋年2回採取した。
「みょうばん」は皮膚病の薬や漬物の発色剤として使われ、現在は湯の花と呼ばれ入浴剤として使われている。 |