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<おくの細道むすびの地>
( The Final Destination of Basho's Oku no Hosomichi Haiku Journey )
芭蕉は元禄2年9月6日、ここで「おくの細道」を結び、木因亭前で乗船、如行始め大垣俳人に送られて「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」の句をのこした。
昭和32年(1957)、「細道」270年祭にあたって関係者の手によって藤堂家秘蔵の原本から蛤の句を写真拡大して刻して「芭蕉蛤塚」を建立し、木因白桜塚・木因俳句道標をここに移した。
<俳句道標>
江戸時代、美濃路と水門川を結ぶ水陸交通の要衝であったここ船町港の高橋畔に建てられ「南伊勢桑名へ十里在郷道」と示されたこの道しるべは、船問屋の主、谷九太夫(木因)の作と伝えられる。
大垣から桑名へ(桑苗)の地名と里程を巧みに詠み込んだ俳句が実用に供され広く親しまれた文学碑として歴史的文学的に高く評価されている。
<芭蕉と木因>
松尾芭蕉が大垣を初めて訪れたのは貞享元年(1684)野ざらし紀行の旅で、年来の俳友谷木因を訪ねた時である。「武蔵野を出る時、野ざらしを心におもいて旅立ちければ、しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」と安堵し、感慨を深めている。
その後も3回来垣しているが、有名なものは元禄2年(1689)の奥の細道の旅でそのむすびの地となる大垣を訪れている。「したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに長月六日になれば、伊勢の迂宮おがまんと又舟にのりて、蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と記し、木因をはじめとする大垣俳人との間に心休まる交流と暖かさを深く感じとらせる。(説明文より引用) |
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