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<築山御前>
静岡市が出身地だったので「お瀬名(せな)の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永(ちかなが)。母は今川義元の妹である。義元の姪にあたる。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚。長男信康、長女亀姫を生んだ。家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので「築山御前」と呼ばれた。
同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆け引きと、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的・人間的関係のひずみの中で、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河のため、徳川家安泰のために屈服せざるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えのなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散華した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましさき、はかなきに涙を禁じ得ないものがある。
時に天正7年(1579)9月29日、岡崎から浜松に向かう途中、甲斐の武田勝頼に内通した疑いで家臣によって佐鳴湖畔にて殺害。築山御前38歳。
家康これを哀れみ、(い)翁禅師に命じて懇ろにこの地(西来院)に葬らしめた。法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼(せいちいんでんたんげつしゅうてんだいぜんじょうほうに)
戦災のために焼失した廟堂は、昭和53年(1978)の400年忌に復原された。
<西来院>(せいらいいん)
曹洞宗、高松山(こうしょうざん)と号し、寒厳(かんがん)十三派中月窓派(げっそうは)と称した。月窓義運禅師(げっそうぎうんぜんじ)が正長元年(1428)に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏。長藤の寺として親しまれている。
墓苑には徳川家康の正室・築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、家康の異父弟・松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人・杉浦真崎、森繁子などの墓がある。西来院の本堂は戦災で焼失したため、現在は鉄筋造りの近代建築になっている。 |
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家康は、築山御前の死後、朝日姫(豊臣秀吉の異父妹)と政略結婚させられたが、正室はこの2人で側室は15人が知られている。
家康は、浜松城にいた17年間に、3人の側室から5人の子供を生んでいる。
二男 |
秀康(幼名:於義丸)慶長6年、越前国北ノ庄(福井)城主。母は氷見氏於万の方。浜松市西区雄踏町の中村屋敷で出生。(小督(おこう)の局、長勝院) |
三男 |
秀忠(幼名:長松)慶長10年、2代将軍となる。母は西郷氏於愛の方(西郷の局、宝台院) |
四男 |
忠吉(幼名:於次)慶長5年、尾張国清洲城主。母は西郷氏於愛の方 |
三女 |
振姫。母は秋山氏於都摩の方(下山殿、長慶院) |
五男 |
信吉(幼名:万千代)慶長7年、常陸国水戸城主。母は秋山氏於都摩の方 |
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