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明智光秀の母お牧の方の墓所と言われている。傍らにそびえる老樹・高野槙(こうやまき)の巨木は樹齢数百年を重ねるが、お牧の方の名(牧=槙)にちなんで墓標とし、また神木として人々に崇拝され、畏怖されてきた。お牧の槙の供養として「甘酒祭り」が行われている。
天正7年10月、信長の命によって丹波攻略に向かった明智光秀に対し、八上城を守る波多野秀治は一年有余も籠城を続けた。「もし開城を迫られるならば波多野一族の保障と光秀殿の母御を差し出されよ」と秀治は申し出た。光秀の母於牧は、「和平のためならば喜んで人質となりましょう」と断腸の想いの光秀をはげまし、従容として八上城に入った。開城降伏した波多野氏は恭順の礼を尽すため安土城に向ったが、信長から即刻切腹を命じられた。八上城ではこの事を知り、光秀の前で母於牧を十字架にかけて磔にした。「いかに主君といえども、母の仇は不倶戴天の仇」光秀の心に重い澱の固まりが沈んだ。
天正10年5月、「毛利平定のため西国に発向せよ。攻めとり次第、石見、出雲の両国与える。ただしこれまで治めていた丹波と近江の志賀、高島両郡を召し上げる」という苛酷な命が信長公から下った。退路を断たれ遮二無二前へ進むしかない状態におかれた。この事が智将光秀の誇りを無残に打ち砕いた。
『ときは今 天が下しる五月哉』 出陣を前にした天正10年5月28日、愛宕参詣の夜の連歌の会で、微妙な表現で上の句を詠んでいる。まだ光秀の胸中は揺れていた。6月1日、軍を発した孤高の武将光秀は老坂を登りつめ、丹波口の三叉路に至った。右すれば攝津街道を経て備中へ、左に降りれば桂川を越えて京に至る。人生は常に三叉路に立たされている。「敵は本能寺にあり」。光秀は躊躇なく左へ降り、桂川を渡って京に入り、一路本能寺へと向った。 |
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寛保3年(1743)に建てられたこの石塔は、当時の世評を配慮してか、光秀と同じく「南無阿弥陀如来」とだけ刻んである。 |
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