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義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。治承四年(1180)、兄頼朝が源氏再興の挙兵をした時、その麾下(直属の家来)に属した。寿永二年(1183)、頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に兵を率いて西上し、翌年近江の国で義仲を倒した。次いで義経と共に一ノ谷の合戦で平家軍を破り、功によって三河守を任じられた。引続き平家追悼のため九州に遠征し、平家滅亡後も九州に留って戦後の経営に当った後、鎌倉に帰った。
その後、頼朝と義経の仲が険悪化した時、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、兄弟を殺すのは嫌だと断ると、範頼も義経のように叛くようになると、疑われるようになった。建久四年(1193)五月の曾我兄弟仇討ちの時、頼朝も巻き込まれ殺されたと誤って伝えられ、嘆き悲しむ政子を慰めて、「範頼がおりますからご安心下さい」と云ったことが、頼朝亡き後幕府横領の下心だと疑いを招いた。範頼は百万陳弁につとめたが、同年八月十七日、ついに当地修禅寺に幽閉され、さらに同月末、梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
信功院は徳川時代に廃止され、現在は庚申塔一本をのこすだけとなっている。 |
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