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太田仁吉は寺津の間之助の子分となり、その後、清水次郎長に客分として預けられ、帰郷後上横須賀吹貫町に旦那衆矢内嘉蔵の援助により家屋の提供があり吉良一家を構えた。
慶応2年4月8日、義理と人情のために出かけた伊勢荒神山の喧嘩により28歳の命を散らした。
墓は一周忌法要の際、次郎長により建立されたと伝わる。なお奥に仁吉の跡目を継いだ勘蔵、兵太郎及び次郎長系の子安伝四郎の墓がある。 |
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仁吉が荒神山へ出かける時に祝餅をついた臼。
<人生劇場望郷篇 比翼塚の章より>尾崎士郎
「仁吉が男になるかならぬかの境目は、荒神山の勇ましい働きぶりぢやなくつて、あの女房が、だまつて三下り半をおしいただき、長いあひだお世話になりました、といつてかえつてゆくうしろ姿を心で伏し拝みながら、さア行かうと立ちあがつたときの切ない気持ちの中にあるんだよ」(源徳寺にある碑文) |
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