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右の墓が井伊直虎、右は井伊直親。
井伊家第22代当主の井伊直盛には男子がなく一人娘(後に出家して次郎法師と名乗る)がいた。次郎法師が直虎と名乗った記録はない。井伊氏の事実上の当主を務めて、徳政令などを行い、女地頭と呼ばれた。井伊直親と婚約したといわれるが、生涯未婚であった。徳川四天王・井伊直政(虎松)の養母となる。
その間の歴史的経過を井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)にある説明を下記に記す。
『井伊直虎(次郎法師)は、井伊家第22代当主・直盛の一人娘。直盛には男子がなく早くより娘の許婚(いいなずけ)として従弟の井伊直親に家督を継がせる予定であった。ところが直親の父が今川氏に殺され、直親(9歳)自身も命を狙われたため、信州へ身を隠すことに。直虎は直親が亡くなったと思い、龍潭寺で出家し次郎法師を名乗る。
11年後、井伊谷に戻った直親は、直盛の養子となり奥山家の娘と結婚し、虎松(24代直政)が生まれる。 桶狭間の戦いで直虎の父・直盛戦死。井伊家の家臣多数死亡し、大きな損失を被る。
永禄5年、23代直親が謀殺されると井伊家は存続の危機に。翌年、20代直平死去。井伊の名を継ぐ男子は、直親の遺児、幼い虎松ただ一人となり、永禄8年、
龍潭寺南渓和尚の計らいで次郎法師はその後見人として井伊直虎と名乗り、女領主として井伊家を支えた。
井伊谷徳政令にみられる政治手腕は優れており、歴代当主に記名はないが井伊家受難の時代を救った女領主として後世に語り継がれる人物である。身を隠していた直政を天正3年、浜松城主徳川家康公に仕えさせ、出世を見届けた直虎は、天正10年、激動の人生に幕をとじる。』 |
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<井伊氏歴代墓所>
井の国を本拠としてきた井伊氏は、平安時代より室町時代まで、遠江の代表的国人領主として西遠地方(静岡県西部地方)を治めてきた。井伊介(いいのすけ)を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗長親王を迎え、北朝軍と戦った。室町時代今川軍が遠江に侵攻すると、敢然と立ち向かったが敗れた。
戦国時代に入った井伊家は受難の連続だったが、今川義元に従って出陣した井伊家の当主22代直盛は桶狭間で戦死。永禄5年には養子直親が今川の手で殺害される。やむなく龍譚寺南渓和尚は直盛の娘、次郎法師を「女性地頭」に立て、井伊家の急場をしのいだ。
永禄11年徳川家康が遠州に侵攻、井伊領を押領した家老を追放し井伊谷(いいのや)を平定する。天正3年井伊家24代直政が浜松城で家康に仕え、見事に井伊家を再興した。この墓所には、こうした井伊氏元祖共保より600年の歴史が静かに眠っている。 |
右より(奥から)
1番目 |
直盛(直虎の父・桶狭間の戦いで討死)の妻 |
2番目 |
直虎 (次郎法師) |
3番目 |
直親(直盛の後に家督を継ぐが今川家の家臣に襲撃され討死) |
4番目 |
直親の妻 |
5番目 |
直政(家康に仕える。後に徳川幕府譜代筆頭になる) |
動画の正面縦型の右は共保、左は直盛の墓である。 |
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直虎などが眠る井伊家の菩提寺龍潭寺。 |