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<山本勘助の墓>
戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は、明応9(1500年8月15日八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていた。
勘助は15歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳の時に武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家を離れて関東の地を歴遊し、45歳の時に甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕え、知謀をもって忠誠をつくし永禄4年((1561)川中島の合戦で討死した。
その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長谷寺(ちょうこくじ)の念宗和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪塔だと伝えられている。また勘助の守り本尊であったとされる麻利支天像(市指定)が、今なお長谷寺に安置されている。(豊川市指定史跡) |
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<山本勘助と長谷寺>
山本勘助は、明応9年(1500)8月15日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていた。勘助は15才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、26才で武者修行のために諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過した。
勘助が諸国を歴遊し武名を高め、35才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本性に戻った。その後、関東の地を歴遊し、45才で甲斐の国(現山梨県)の武田信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われたが、永禄4年(1561)9月10日、川中島の合戦で討死した。
勘助は、この地の人々と親交があり、当寺の念宗和尚とは特に親しく、武田信玄に仕えた折には、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚に託している。川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを悼み、当寺に遺髪を納めた五輪塔を建立した。また当寺には、勘助の守本尊「摩利支天尊像」が残されている。
毎年、勘助の命日には、地元の人々により、当寺において「山本勘助祭」として供養が執り行われている。山本勘助の墓は長野市川中島等にもある。
<摩利支天像>
摩利支天像は1寸3分(約4cm)の小像で、当寺壇上の厨子の中に安置されている。山本勘助は25才の時、高野山に登り武芸上達を祈願すること7昼夜、満願の夜に霊験によって、夢中に弘法大師空海の作といわれる本尊を授けられ、以来、襟に掛けて己の守り本尊とした。
その後、武者修行のために諸国を歴遊し、45才で武田信玄に仕え、幾多の戦いで勇名手柄をあげた。勘助は出陣にあたり、もし戦場で討死し、身からはなさずに昼夜襟に掛けていた本像が人手に渡らんことを嘆き、当寺の念宗和尚に託した。
本像は、火焔輪光背を背負い、三面六臂の焔髪(分怒髪:ふんぬはつ)像で4頭の猪に座した騎像となっているのが特徴です。昭和47年に市の文化財に指定された。
本像を拝み信ずる者は災難を逃れ、かつ武芸に心する者は、深く祈願すれば剣術早業の奥義を究め、将来に名を残すこと疑いなしといわれている。 |
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